監査法人は企業の財務諸表をチェックする立場です。
ところが、その監査法人に監査報酬を支払っているのは、監査される企業自身です。
ここには監査制度がもともと抱えている難しい構造があります。
お金を払ってくれる顧客に対して、必要であれば厳しい指摘をしなければならないからです。
企業との関係を悪化させれば、将来その企業から仕事を失う可能性もあります。
それでも監査法人は企業の意向ではなく、監査で得た証拠に基づいて判断しなければなりません。
そこで監査制度の根幹となるのが、監査人の独立性です。
監査法人の本当の利用者は誰なのか
監査契約を結ぶのは企業です。
監査報酬を支払うのも企業です。
しかし監査報告書を利用するのは企業だけではありません。
株主や投資家。
銀行などの金融機関。
社債を保有する債権者。
取引先。
さまざまな人が監査済みの財務諸表を利用します。
つまり監査法人は企業から報酬を受け取りますが、監査によって提供される信用は資本市場全体で利用されます。
この点が一般的なサービス業とは大きく異なります。
顧客満足だけを考えてはいけない仕事である
一般的なサービス業では、顧客満足度を高めることは重要です。
顧客の要望に応えれば、継続して仕事を依頼してもらえる可能性が高まります。
しかし監査では、顧客の希望どおりに仕事をすることが必ずしも正しいとは限りません。
企業がある会計処理を採用したいと考えていても、監査人が適切ではないと判断すれば修正を求める必要があります。
重要な監査証拠が不足していれば、追加資料を求めなければなりません。
経営者が嫌がったとしても必要な確認を行う必要があります。
監査人は顧客企業にサービスを提供しながら、顧客企業から一定の距離を置かなければならない特殊な仕事なのです。
独立性には外見も重要になる
監査人自身が、
私は企業から影響を受けていない、
と思っているだけでは十分ではありません。
外部から見ても独立していると信頼される必要があります。
例えば監査を担当する人が監査先企業と重大な経済的利害関係を持っていれば、本人が公正に判断しているとしても、投資家から疑問を持たれる可能性があります。
監査制度は監査報告書への信用によって成り立っています。
そのため実際に公正な判断をすることだけでなく、公正な判断ができる立場にあると外部から見えることも重要です。
長い付き合いが判断に影響する可能性がある
企業と監査法人の関係が長くなると、企業について深く理解できるというメリットがあります。
一方で、人間関係も長くなります。
毎年同じ経営者や経理担当者と仕事をしていれば、信頼関係が生まれます。
通常の仕事であれば良いことです。
しかし監査では、その信頼関係が強くなり過ぎることに注意が必要です。
過去に問題がなかった担当者だから今回も大丈夫だろう。
長年この処理を認めてきたから今年も問題ないだろう。
こうした思い込みが生じれば、監査人として必要な職業的懐疑心が弱くなる可能性があります。
前回取り上げたローテーションは、このような長期関係によるリスクを抑える方法の1つです。
経営者と意見が対立することもある
監査が適切に行われていれば、監査法人と企業の意見が常に一致するとは限りません。
例えば企業が利益を計上したい取引について、監査人が売上計上の条件を満たしていないと判断することがあります。
企業が資産価値は下がっていないと考えていても、監査人が減損について詳しい検討を求めることもあります。
引当金の金額について意見が分かれることもあります。
企業にとって利益が減る修正であれば、経営者が簡単には受け入れない場合もあります。
それでも監査人は必要な主張をしなければなりません。
企業との関係維持を優先して判断を曲げれば、監査の意味がなくなります。
監査法人を変更すると言われたらどうするのか
監査人の独立性を考えるうえで難しいのが、契約を失う可能性です。
企業側から、
その判断を変えないのであれば監査法人を変更する、
という圧力を感じる状況があれば、監査人にとって大きな問題になります。
大口顧客であれば、契約を失った場合の経営への影響も大きくなります。
しかし監査意見は、契約を維持できるかどうかによって決めるものではありません。
監査証拠と会計基準などに基づいて判断する必要があります。
そのため監査法人では、個人の担当者だけに難しい判断を任せるのではなく、組織として重要な判断を検討する仕組みが重要になります。
監査報酬を企業が払うという矛盾
ここで根本的な疑問が出てきます。
企業から独立しなければならないのであれば、なぜ監査報酬を企業自身が支払うのでしょうか。
これは監査制度が抱える構造的な問題です。
監査法人は企業と契約し、企業から報酬を受け取ります。
一方、その監査の結果を利用するのは広く資本市場です。
この仕組み自体を完全になくすことは簡単ではありません。
だからこそ、監査人の独立性を守るためのルールや品質管理が重要になります。
報酬を受け取っている相手だからといって、その相手に有利な判断をしてはいけないという厳しい職業倫理が求められます。
監査以外の仕事が増えると問題はさらに複雑になる
大手会計事務所は監査だけを行っているわけではありません。
税務、アドバイザリー、コンサルティングなど幅広いサービスを提供するグループもあります。
監査先企業から監査報酬だけでなく、別の業務についても多額の報酬を受け取れば、経済的な関係はさらに大きくなる可能性があります。
また、自ら関与した仕組みや数値を後から自分で監査するような状況になれば、独立性に対する疑問も生じます。
そのため監査先企業に提供できる非監査業務には一定の制約があります。
監査とコンサルティングの関係は、独立性を考えるうえで非常に重要なテーマです。
恒大問題でも問われるのは監査人の姿勢である
中国恒大問題では、2019年から2020年にかけて総額5640億元、日本円で約13兆円の売上高が水増しされたとされています。
中国当局はPwC中天の監査についても処分を行っています。
重要なのは、単に巨大な粉飾を発見できなかったという結果だけではありません。
監査人が企業から独立した立場で必要な検証を行っていたのか。
経営者の説明と監査証拠が食い違った場合に、十分な追加確認を行ったのか。
企業との関係より監査品質を優先したのか。
こうした監査の実態が重要になります。
監査人の独立性とは形式的なルールだけではなく、実際の監査判断に表れるものだからです。
結論
監査法人と企業は、監査を行うために密接にコミュニケーションを取る必要があります。
しかし近くなり過ぎてはいけません。
監査法人は企業から監査報酬を受け取っていますが、監査報告書によって守るべき信用は企業だけのものではないからです。
株主、投資家、金融機関、債権者など多くの人が監査済み財務諸表を利用します。
企業との長い付き合い。
監査報酬への依存。
経営者との人間関係。
監査以外のサービス。
こうした関係が監査判断に影響すれば、監査制度への信用が損なわれます。
監査人に求められるのは、企業を深く理解しながら、必要なときには企業と対立できる距離を保つことです。
企業から報酬を受け取りながら企業から独立する。
この一見矛盾した役割を維持することこそ、監査制度の根幹なのです。
次回は、監査報酬が大きい企業ほど監査法人は厳しくできなくなるのか、大口顧客への経済的依存と独立性の問題を取り上げます。
参考
日本経済新聞 2026年9月29日朝刊 恒大不正、逃げられぬPwC