日本経済が金利のある世界に移行するなか、奨学金の返還負担を抱える若い世代への支援が企業経営の新たな課題となっています。
日本学生支援機構の有利子奨学金である第2種奨学金では、2026年夏に利率固定方式の利率が上限の3%に達しました。
大学卒業時に数百万円の奨学金を抱える若者にとって、毎月の返還負担は生活費や住宅購入、結婚資金の準備などに影響します。
こうしたなか、企業が従業員の奨学金返還を支援する代理返還制度が注目されています。
企業が日本学生支援機構に直接返還する仕組みを利用すれば、従業員の経済的負担を軽減できるだけでなく、一定の要件のもとで所得税や社会保険料についても有利な取扱いが認められる場合があります。
企業にとっても、人材採用や定着を促進する福利厚生制度として期待されています。
ただし、奨学金代理返還制度を導入する際には、所得税、法人税、社会保険、労働保険などの取扱いを正確に理解する必要があります。
今回は、奨学金代理返還制度の仕組み、税務上の取扱い、社会保険料への影響、企業が導入する際の実務上の注意点について詳しく解説します。
奨学金代理返還制度とは何か
奨学金代理返還制度は、企業が従業員の奨学金返還を支援する仕組みです。
日本学生支援機構では、2021年4月から企業等による奨学金の代理返還制度を開始しました。
この制度では、企業が従業員に代わって、日本学生支援機構に直接返還金を送金できます。
例えば、従業員が毎月2万円の奨学金を返還している場合を考えます。
企業が毎月1万円を代理返還すれば、従業員が自分で負担する金額は原則として毎月1万円になります。
年間では12万円、5年間では60万円の支援になります。
企業が毎月2万円を代理返還すれば、対象となる返還額の全額を企業が負担することも可能です。
ただし、代理返還は従業員の奨学金債務を企業が全面的に引き受ける制度ではありません。
企業が支援する範囲を超える返還義務は、引き続き従業員本人に残ります。
また、企業による支援が終了した場合には、残額について本人が返還を続ける必要があります。
制度の本質は、企業による教育ローンの肩代わりというよりも、従業員の経済的負担を軽減するための福利厚生施策と考えることができます。
企業が直接返還する仕組みに税務上の特徴がある
奨学金代理返還制度を理解するうえで重要なのは、企業が従業員に現金を支給する場合と、日本学生支援機構に直接返還する場合では、税務上の取扱いが異なる可能性があることです。
例えば、企業が従業員に毎月1万円の奨学金返還手当を給与として支給した場合を考えます。
この手当は、原則として給与所得として所得税の課税対象になります。
また、社会保険料の算定対象となる報酬にも該当するのが通常です。
一方、企業が日本学生支援機構に直接代理返還する場合には、一定の要件を満たすことで、従業員の所得税について非課税となる取扱いが認められます。
ここで注意したいのは、企業が直接返還すれば、どのような場合でも自動的に非課税になるわけではないことです。
給与に代えて代理返還を行う場合や、役員への利益供与に当たる場合などには、別途税務上の検討が必要になります。
制度の目的や支給条件、実際の運用を踏まえた判断が求められます。
所得税では学資に充てるための給付として扱われる
所得税法では、学資に充てるために給付される金品について、一定の非課税規定が設けられています。
所得税法第9条第1項第15号に規定される学資金の非課税制度です。
日本学生支援機構の企業等による奨学金代理返還制度についても、一定の要件を満たす場合には、この非課税規定に基づく取扱いが認められます。
例えば、企業が従業員の奨学金返還のために毎月1万円を日本学生支援機構に直接送金する場合を考えます。
その支援が学資金としての要件を満たせば、従業員に対する給与課税が生じない取扱いとなります。
年間12万円の支援を受けても、その金額について所得税が課されないことになります。
一方、通常の給与として年間12万円を受け取る場合には、所得税の課税対象となります。
この違いは、従業員の手取り額に影響します。
ただし、非課税となるためには、学資に充てるための給付であることや、通常の給与に代えて支給されるものではないことなどが重要です。
給与の一部を形式的に奨学金返還へ振り替えただけでは、非課税の取扱いが認められない可能性があります。
企業は制度の趣旨に沿った運用を行う必要があります。
法人税では企業の費用として損金算入できるか
企業が奨学金を代理返還する場合、法人税上の取扱いも重要です。
従業員のために負担する奨学金代理返還額は、原則として給与等の性質を持つ費用として、損金算入の対象になります。
例えば、従業員10人に対して毎月1万円ずつ代理返還する場合を考えます。
企業の年間負担額は120万円です。
この120万円が適正な従業員給与等として認められれば、法人税の所得計算上、損金に算入できます。
仮に法人税等の実効税率を30%と単純に仮定すると、120万円の損金算入による税負担の軽減効果は36万円です。
企業の税引後の実質負担は84万円になります。
ただし、これは税務効果を説明するための単純な試算です。
実際の税負担は、企業の所得状況、適用税率、欠損金の有無などによって異なります。
また、奨学金代理返還額が損金になることと、税額が同額だけ減少することは異なります。
企業が120万円を支出したからといって、税金が120万円減るわけではありません。
さらに、役員を対象とする場合には、役員給与の損金算入規制など、従業員とは異なる検討が必要です。
制度導入時には、対象者の範囲や支給基準を明確にしておくことが重要です。
社会保険料の算定対象になるかが重要
奨学金代理返還制度の特徴として、社会保険料の取扱いがあります。
健康保険や厚生年金保険の保険料は、原則として従業員の標準報酬月額などを基礎として計算されます。
通常の給与や手当として支給する場合には、社会保険料の算定対象となることが一般的です。
一方、日本学生支援機構への直接代理返還については、一定の要件を満たす場合、社会保険上の報酬に該当しないものとして取り扱われます。
例えば、従業員に毎月1万円の手当を給与として支給すれば、通常は報酬に含めて標準報酬月額を判断します。
しかし、奨学金代理返還制度に基づいて企業が直接返還する場合には、報酬に含めない取扱いが認められることがあります。
この場合、従業員と企業の双方にとって、社会保険料負担の増加を抑えられる可能性があります。
ただし、社会保険上の報酬に該当するかどうかは、支給の実態や制度の内容によって判断されます。
例えば、奨学金返還支援という名称であっても、実質的に通常の給与の一部である場合には、報酬として取り扱われる可能性があります。
また、標準報酬月額は等級制であるため、毎月1万円の支援額が報酬に含まれなくなったとしても、必ず社会保険料が減少するわけではありません。
制度導入時には、日本年金機構などが示す取扱いを確認する必要があります。
労働保険料では社会保険と取扱いが異なる
企業の実務では、社会保険料だけでなく、労働保険料の取扱いにも注意が必要です。
労働保険には、労災保険と雇用保険があります。
労働保険料の算定基礎となる賃金の範囲は、健康保険や厚生年金保険における報酬の範囲と必ずしも一致しません。
そのため、奨学金代理返還額が健康保険や厚生年金保険の報酬に該当しない場合でも、労働保険料の算定上は賃金に該当する可能性があります。
日本学生支援機構への代理返還額についても、労働の対償として支払われるものかどうかなどを踏まえて判断する必要があります。
企業が制度を導入する際には、所得税が非課税になることや社会保険料の算定対象から除外されることだけをもって、労働保険料についても同じ取扱いになると判断してはいけません。
税務、社会保険、労働保険では、それぞれ異なる法令や判断基準が適用されます。
経理部門と人事労務部門が連携し、各制度の取扱いを確認することが重要です。
具体例で考える奨学金代理返還制度の導入効果
従業員50人の中小企業が、奨学金代理返還制度を導入する場合を考えてみましょう。
この企業では、奨学金を返還している若手従業員が10人いるとします。
企業は対象者1人につき毎月1万円を日本学生支援機構に直接返還する制度を導入します。
年間の支援額は、1万円に12カ月と10人を掛けた120万円です。
5年間継続すれば、企業の支援総額は600万円になります。
一方、従業員1人当たりでは、年間12万円、5年間で60万円の支援を受けられます。
仮に従業員の奨学金返還額が毎月2万円であれば、企業の支援によって本人の負担は半分になります。
企業にとって年間120万円の支出は決して小さくありません。
しかし、人材採用や定着に効果があれば、採用費用や離職による損失を抑えられる可能性があります。
例えば、若手従業員が退職した場合には、新たな採用活動、教育研修、業務の引継ぎなどに費用が発生します。
奨学金返還支援によって従業員の定着率が改善すれば、福利厚生費用を上回る経済的効果が生まれる可能性があります。
ただし、実際の効果は企業の採用環境や従業員構成によって異なります。
導入後には、利用者数、採用応募者数、離職率、従業員満足度などを確認し、制度の効果を検証することが望まれます。
就業規則と社内規程の整備が欠かせない
奨学金代理返還制度を導入する場合には、社内規程の整備が重要です。
まず、制度の対象者を明確にする必要があります。
例えば、正社員のみを対象とするのか、契約社員や短時間勤務者も対象とするのかを検討します。
次に、支援額と支援期間を決めます。
毎月1万円を上限とするのか、本人の実際の返還額まで支援するのかによって、企業の負担は変わります。
また、入社後何年間支援するのか、奨学金の返還が終了した場合にどうするのかも定める必要があります。
さらに、休職、育児休業、転職、退職などが発生した場合の取扱いも重要です。
例えば、退職時に過去の代理返還額を一括返還させるような制度設計には慎重な検討が必要です。
労働基準法第16条では、労働契約の不履行について違約金を定めたり、損害賠償額を予定したりすることが禁止されています。
そのため、従業員の退職の自由を不当に制約するような返還条件は、法的な問題を生じさせる可能性があります。
奨学金返還支援は、従業員の定着を促進する制度であっても、退職を妨げる制度であってはなりません。
企業は制度の目的と法令上の制約を踏まえ、合理的な社内規程を整備する必要があります。
経理部門が確認すべき実務上の注意点
奨学金代理返還制度の導入では、経理部門の役割も重要です。
まず、代理返還額をどの勘定科目で処理するかを決める必要があります。
従業員に対する給与等の性質を持つ費用であることを踏まえ、給与手当や福利厚生費など、企業の会計方針に応じて適切に処理します。
勘定科目の名称だけで税務上の取扱いが決まるわけではありません。
重要なのは、支出の実態と制度の内容です。
次に、代理返還額が日本学生支援機構に適切に送金されていることを確認します。
対象従業員、返還対象となる奨学金、毎月の支援額、送金実績などを管理する必要があります。
また、従業員の所得税について非課税として処理する場合には、その根拠となる制度内容や支援実績を保存しておくことが重要です。
社会保険料の算定対象から除外する場合にも、支給実態を説明できる資料が必要になります。
さらに、消費税の取扱いにも注意が必要です。
従業員の奨学金を代理返還する支出は、通常、企業が課税資産の譲渡等を受ける対価ではありません。
そのため、代理返還額そのものについて仕入税額控除の対象となる課税仕入れが生じるわけではありません。
企業が支払う金額をすべて消費税の課税仕入れとして処理できるわけではないことを理解する必要があります。
人材採用と福利厚生を一体で考える
奨学金代理返還制度は、単なる従業員支援にとどまりません。
人手不足が深刻化する日本では、企業の人材戦略にも関わる制度です。
特に、中小企業では大企業と同じ水準の初任給や賞与を提示することが難しい場合があります。
そのような企業でも、奨学金返還支援などの福利厚生を充実させることで、採用活動における魅力を高められる可能性があります。
例えば、月給25万円の企業が毎月1万円の奨学金代理返還を行う場合、対象従業員にとっては給与とは別に年間12万円の支援を受けられることになります。
一定の要件を満たして所得税が非課税となる場合には、同額を通常の給与として受け取る場合よりも、税引後の経済的利益が大きくなる可能性があります。
ただし、奨学金を借りていない従業員との公平性にも配慮が必要です。
代理返還制度を利用できる従業員だけが福利厚生の恩恵を受けることになるためです。
企業によっては、資格取得支援、住宅手当、教育研修制度などを組み合わせ、従業員全体の福利厚生のバランスを図ることも考えられます。
制度を導入する際には、奨学金返還支援だけを独立して考えるのではなく、企業全体の人材育成方針と整合させることが重要です。
結論
奨学金代理返還制度は、金利のある世界を迎えた日本において、若い世代の経済的負担を軽減する重要な仕組みです。
企業が日本学生支援機構に直接返還することで、従業員の奨学金返還を支援できます。
一定の要件を満たす場合には、従業員の所得税について非課税の取扱いが認められ、社会保険料の算定対象となる報酬にも該当しない場合があります。
また、企業が負担する代理返還額は、原則として適正な給与等の費用として法人税の損金算入の対象になります。
一方、税務上の非課税と社会保険上の報酬の取扱いは、それぞれ異なる基準によって判断されます。
労働保険料についても別途確認が必要です。
企業が制度を導入する際には、税務上のメリットだけに注目するのではなく、社内規程の整備、対象者の公平性、退職時の取扱い、支援実績の管理などを総合的に検討する必要があります。
特に、経理部門と人事労務部門が連携し、制度の内容と実際の運用を一致させることが重要です。
奨学金代理返還制度は、従業員にとっては家計負担の軽減につながり、企業にとっては採用力や人材定着率の向上につながる可能性があります。
人口減少と人手不足が進む日本では、人材への投資が企業の競争力を左右する重要な要素になっています。
教育を受けるために借金を抱えた若者を、就職後に企業が支援する仕組みは、教育政策と企業経営を結びつける新たな取組みといえます。
今後は、奨学金返還支援を単なる福利厚生費用としてではなく、将来の企業価値を高める人的資本投資として位置づける企業が増えていくのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月12日 朝刊 「日本の奨学金、『金利ある世界』どう生きるか 識者『利率上限下げも』」
日本学生支援機構 企業等による奨学金返還支援制度に関する公表資料
国税庁 所得税法第9条第1項第15号に規定する学資金の非課税に関する公表資料
日本年金機構 奨学金代理返還制度に係る社会保険上の取扱いに関する公表資料
厚生労働省 労働保険の賃金総額に関する公表資料