企業法務には、会社をリスクから守る役割があります。
契約上の問題、法令違反、訴訟、規制違反、不祥事などを防ぐことは、今も昔も重要です。
しかし、リスクを避けることだけを考えていると、企業は別のリスクを抱えることになります。
それが「リスクを取らないリスク」です。
新しい市場に進出しない。
新しい技術を使わない。
新しいビジネスモデルを試さない。
慎重に見れば安全に思えますが、その間に競争相手が先行し、成長機会を失う可能性があります。
これからの企業法務には、リスクを減らすだけでなく、どのリスクを取るべきかを経営と一緒に考える視点が求められます。
リスクをゼロにすることはできない
企業活動からリスクを完全になくすことはできません。
海外に進出すれば規制リスクがあります。
M&Aをすれば契約や独占禁止法上の問題が生じる可能性があります。
新商品を出せば消費者とのトラブルが起こるかもしれません。
生成AIを導入すれば著作権、個人情報、営業秘密、誤情報などの問題が発生する可能性があります。
それでも企業は事業を行います。
なぜなら、リスクを一切取らなければ利益を生み出すことも難しいからです。
企業経営とは、リスクをなくす作業ではなく、リスクとリターンを比較しながら判断する作業だといえます。
法務部門もこの考え方を理解する必要があります。
法務が慎重すぎると意思決定が遅れる
日本企業の法務部門は、リスクを丁寧に検討する能力が高いといわれます。
これは大きな強みです。
契約条件を細かく確認し、法的論点を漏れなく検討し、想定される問題を事前に整理する。
不祥事や紛争を防ぐうえで非常に重要です。
一方で、予測が難しい新しい問題では、検討を重ねるほど意思決定が遅れることがあります。
必要な情報がすべてそろうまで待つ。
規制当局の考え方が明確になるまで待つ。
他社の動向が分かるまで待つ。
こうした慎重さが合理的な場合もあります。
しかし、変化の速い市場では、待つこと自体が競争上の不利益になることがあります。
「何もしない」という判断にもリスクがある
経営判断では、「実行する」ことだけが判断ではありません。
「実行しない」ことも立派な判断です。
そして、その判断にも結果があります。
例えば生成AIの社内利用を考えてみましょう。
情報漏えいや誤情報の問題があるため、
「安全性が完全に確認されるまで利用禁止」
とする会社があったとします。
一定の合理性はあります。
しかし、その間に競合企業がAIを活用して業務効率を大幅に高めたらどうでしょうか。
商品開発の速度が上がる。
顧客対応が速くなる。
事務コストが下がる。
社員がAI利用の経験を蓄積する。
数年後には大きな差になっている可能性があります。
つまり、AIを利用するリスクと同時に、AIを利用しないリスクも存在します。
経営判断では両方のリスクを見る
法務部門が経営を支えるためには、
「実行した場合のリスク」
だけでなく、
「実行しなかった場合のリスク」
も整理する必要があります。
例えば新規事業なら、
法的リスクはどの程度か。
問題が起きた場合の損失はどの程度か。
そのリスクを減らす方法はあるか。
参入を遅らせた場合に失う市場はどの程度か。
競合企業が先行する可能性はあるか。
将来の成長機会を失う可能性はあるか。
こうした要素を比較して初めて、経営者は適切な判断ができます。
法務部門の役割は、単に危険を知らせることではありません。
リスクの全体像を見えるようにすることです。
リスクの大きさと発生確率を分けて考える
法務リスクを考えるときには、すべての問題を同じ重さで扱わないことも重要です。
例えば、
発生する可能性は低いが、起きれば会社存続に関わる問題。
発生する可能性は高いが、損失は小さい問題。
発生確率も損失も大きい問題。
発生確率も損失も小さい問題。
これらは対応方法が違います。
重大な法令違反につながる可能性が高いなら、事業を止める判断も必要でしょう。
一方で、一定のリスクはあるものの、契約条件や管理体制を工夫すれば十分対応できる場合もあります。
すべてのリスクを「危ない」という1つの言葉で処理すると、経営判断に役立つ情報になりません。
リスクを分解し、重要度をつけることが必要です。
リスクの優先順位を決める
企業には限られた人員と時間しかありません。
すべてのリスクに同じだけの資源を投入することはできません。
そこで重要になるのが優先順位です。
企業の存続に関わる重大なリスク。
巨額の損失につながるリスク。
経営者の責任問題につながるリスク。
ブランドや信用を大きく傷つけるリスク。
こうした問題には重点的に対応する必要があります。
一方で、影響が小さい問題については、一定のリスクを受け入れる判断も必要になります。
法務担当者には、「リスクがあるかないか」ではなく、「どのリスクをどこまで管理するか」を考える能力が求められます。
小さく試すという考え方
不確実性が高い分野では、最初から大きな決断をする必要はありません。
そこで有効なのが、小規模に試す方法です。
例えば新しいAIサービスを導入する場合、
最初は利用部門を限定する。
入力できる情報を限定する。
利用目的を限定する。
一定期間テストする。
問題がないか確認する。
その後に対象を拡大する。
こうすれば、リスクを完全にゼロにできなくても、管理しながら経験を蓄積できます。
これは法務にも重要な発想です。
「できるか、できないか」という2択ではなく、「どの条件なら試せるか」を考えるのです。
法務はリスクの翻訳者になる
経営者と法務担当者では、同じ問題でも見え方が違うことがあります。
法務担当者は、
法令違反の可能性。
訴訟の可能性。
契約上の責任。
規制当局への対応。
を重視します。
一方、経営者は、
売上。
利益。
市場シェア。
競争力。
成長性。
投資効率。
などを考えます。
両者が別々の言葉で話しているだけでは、適切な意思決定はできません。
法務には、法律上のリスクを経営上のリスクへ翻訳する役割があります。
例えば、
「この契約には法的リスクがあります」
ではなく、
「この条件のまま進めると、最悪の場合は数十億円規模の損失と事業停止の可能性があります」
と説明する。
逆に、
「この部分を修正すれば、リスクを大きく下げながら事業を進められます」
と提案する。
こうした説明が経営判断につながります。
リスク許容度は企業によって違う
どこまでリスクを取るべきかについて、すべての企業に共通する正解はありません。
企業の規模、財務体力、業種、成長段階、企業文化によって異なります。
例えば新興企業であれば、一定のリスクを取って急速に成長することが重要な場合があります。
一方、社会インフラを担う企業や金融機関では、同じリスクを取ることが許されない場合があります。
企業がどこまでリスクを受け入れるのか。
いわゆるリスクアペタイトを明確にすることが重要です。
法務部門も、自社のリスク許容度を理解していなければ適切な助言はできません。
法務にも事業を理解する力が必要になる
「リスクを取らないリスク」を考えるには、法律知識だけでは足りません。
事業を理解する必要があります。
その市場は今後成長するのか。
競合企業はどう動いているのか。
その事業は会社全体にとってどの程度重要なのか。
参入が半年遅れた場合、どの程度の影響があるのか。
こうしたことを理解して初めて、法的リスクと事業機会を比較できます。
そのため、これからの法務人材には、財務、事業戦略、マーケティング、技術などへの理解も求められるでしょう。
法務が経営に近づくということは、法務担当者自身が経営を学ぶということでもあります。
AI時代は判断のスピードも競争力になる
生成AIによって、企業の意思決定速度そのものが変わる可能性があります。
情報収集や分析が速くなれば、企業はより短い時間で新しいサービスを開発し、市場投入できるようになります。
そのとき法務部門だけが従来と同じ時間をかけて判断していれば、企業全体の速度を落とす可能性があります。
もちろん、速ければよいというものではありません。
重要なのは、確認すべき重大なリスクと、一定の範囲で受け入れられるリスクを分けることです。
AI時代には、法務部門の判断力だけでなく判断速度も企業競争力の一部になるのかもしれません。
結論
企業法務の使命は、リスクをなくすことではありません。
企業が適切なリスクを取りながら成長できるように支えることです。
事業を実行するリスクだけを見れば、慎重な判断に傾きやすくなります。
しかし、経営では「何もしないこと」にもリスクがあります。
市場参入が遅れる。
競合企業に先行される。
新しい技術を使いこなせない。
優秀な人材を失う。
成長機会を逃す。
こうした機会損失も企業にとって重大なリスクです。
これからの法務部門には、
どのリスクは避けるべきか。
どのリスクは管理できるのか。
どのリスクは取るべきなのか。
そしてリスクを取らないことで何を失うのか。
そこまで考える経営感覚が求められるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「企業の法務機能は進化できるか 役割や育成、法務トップ経験者に聞く」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「『違和感は口に出して』経営判断支える 三菱商事・野島嘉之氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AIの時代、価値判断に責任 弁護士、元米グーグル日本法人・野口祐子氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AI前提の再設計が課題に」