2026年10月22日
日本のスタートアップを取り巻く経営環境が大きく変わり始めています。これまで成長企業にとって成功の象徴とされてきた新規株式公開(IPO)のハードルが高まる一方、企業の売却や事業譲渡を通じたM&Aが新たな成長戦略として注目されています。
こうした変化を背景に、IPOとM&Aの双方を並行して検討するデュアルトラック戦略の重要性が増しています。
デロイトトーマツグループは2026年10月、スタートアップがIPOとM&Aを同時に検討できる新たな支援サービスを開始します。
この動きは単なる経営支援サービスの拡充ではありません。日本のスタートアップにおける資本政策、企業価値評価、事業承継、投資資金の回収方法を見直す契機になると考えられます。
IPOを目指すだけでは難しくなったスタートアップ経営
日本では長年、スタートアップの成功モデルとしてIPOが重視されてきました。
ベンチャーキャピタルなどから出資を受け、事業を拡大し、株式市場への上場を通じて企業価値を高めるという成長モデルです。
しかし、IPOを取り巻く環境は厳しくなっています。
2026年1月から9月までの国内IPO企業数は32社となり、前年同期比14%減少しました。
特にスタートアップの主要な上場先である東京証券取引所グロース市場では18社にとどまり、前年同期から約20%減少しています。
背景には、上場企業に対して持続的な成長と一定以上の企業規模を求める市場改革があります。
グロース市場では2030年以降、上場維持基準が原則として上場5年経過後に時価総額100億円以上へ引き上げられる予定です。
従来の上場10年経過後に時価総額40億円以上という基準と比較すると、企業には短期間でより大きな成長を実現することが求められます。
IPOそのものが目的になってしまう経営では、上場後の企業価値を維持することが難しくなっています。
M&Aがスタートアップの新たな出口戦略に
IPOの難易度が高まる一方、M&Aを選択するスタートアップが増加しています。
スタートアップ情報サイトのスピーダによると、2026年1月から6月までのスタートアップの被買収や事業譲渡などの事例は141件となり、前年同期比で30%以上増加しました。
この変化には、売り手と買い手の双方に合理的な理由があります。
スタートアップにとってM&Aは、株式上場に必要な時間や費用をかけずに、既存株主へ投資回収の機会を提供できる可能性があります。
また、大企業の資金力、販売網、人材、技術基盤を活用することで、単独では実現が難しかった成長を加速できる場合があります。
一方、大企業にとってもM&Aは重要な成長手段です。
新規事業を社内でゼロから立ち上げるよりも、優れた技術や顧客基盤を持つスタートアップを買収する方が、事業化までの時間を短縮できる可能性があります。
ただし、M&Aには買収後の組織統合や企業文化の違いなどの課題もあります。
企業の売却価格だけでなく、買収後に事業の成長を継続できるかどうかが重要です。
デュアルトラック戦略とは何か
デュアルトラック戦略とは、IPOとM&Aという2つの出口戦略を並行して検討する経営手法です。
従来のスタートアップでは、まずIPOを目指し、上場が難しくなった段階でM&Aへ方向転換するケースが少なくありませんでした。
しかし、この方法には問題があります。
IPO準備には監査対応、内部統制の整備、経営管理体制の強化など、多くの時間と費用が必要です。
その準備が進んでからM&Aを検討すると、売却交渉に必要な時間が不足したり、適切な買い手を見つけられなかったりする可能性があります。
デュアルトラック戦略では、早い段階から両方の選択肢を比較します。
例えば、あるスタートアップが将来のIPOによって時価総額150億円を目指せるとします。
一方、大企業から120億円での買収提案を受けた場合、単純に金額だけを比較してIPOを選ぶことが合理的とは限りません。
IPOには市場環境の変化や上場後の株価下落リスクがあります。
M&Aには、早期に投資資金を回収できるメリットがあります。
さらに、経営者が事業に関与し続けられるか、従業員の雇用が維持されるか、既存株主がどの程度の利益を得られるかによっても判断は変わります。
重要なのは、複数の選択肢を比較したうえで企業価値の最大化を目指すことです。
デロイトが新たな支援サービスを始める理由
デロイトトーマツグループが開始する新サービスは、IPOとM&Aの双方について企業価値や実現可能性を分析するものです。
IPOを選択した場合の想定株価や上場後の成長可能性、M&Aを選択した場合の買収候補企業との相乗効果などを検討します。
さらに、既存株主への影響や資本政策についても分析します。
注目すべき点は、従来は異なる専門部門が担当していたIPOとM&Aを、横断的に支援する仕組みを整えることです。
証券会社やコンサルティング会社では、IPOとM&Aの担当部門が異なることがあります。
IPOを支援する部門にとっては、企業がM&Aを選択すると上場関連の収益機会が失われる可能性があります。
反対に、M&Aを担当する部門には売却成立を優先する誘因が生じることも考えられます。
このような利益相反の可能性を踏まえると、企業側には複数の専門家から意見を聞き、客観的に判断する姿勢が必要です。
デロイトの新サービスは、こうした部門間の調整を通じて、スタートアップが複数の選択肢を比較できる体制を目指しています。
なお、監査業務と助言業務を同じグループが提供する場合には、監査人の独立性に関する規制や職業倫理上の制約にも注意する必要があります。
IPOとM&Aでは税務上の取扱いも異なる
出口戦略を検討する際には、税務面の比較も欠かせません。
IPOの場合、既存株主が保有株式を売却しなければ、原則として上場しただけで株式の含み益に所得税が課されるわけではありません。
その後、株式を売却した段階で譲渡所得に対する課税が問題になります。
一方、M&Aでは、株式譲渡、事業譲渡、合併、株式交換など、取引形態によって税務上の取扱いが大きく異なります。
例えば、個人株主が保有する非上場株式を売却した場合、原則として株式等に係る譲渡所得等に対して20.315%の税率が適用されます。
ただし、法人株主の場合は法人税の課税関係となり、同じ税率で計算することはできません。
また、会社が事業そのものを譲渡する場合には、譲渡益に対する法人税のほか、譲渡対象資産に応じた消費税の取扱いも検討する必要があります。
適格組織再編に該当するかどうかによっても、課税関係が変わります。
したがって、同じ買収価格であっても、取引方法によって最終的に株主や経営者の手元に残る金額は異なります。
出口戦略は企業価値の評価だけでなく、税引後の経済的利益まで含めて検討することが重要です。
セカンダリー取引という第3の選択肢
近年はIPOとM&Aに加え、セカンダリー取引も注目されています。
セカンダリー取引とは、既存株主が保有する株式を別の投資家などに売却する取引です。
例えば、創業初期から出資していたベンチャーキャピタルが、成長段階にある企業の株式を別の投資ファンドへ売却するケースが考えられます。
企業自体は上場も売却もせず、独立した経営を続けることができます。
一方、既存株主は投資資金を回収できます。
スタートアップにとっては、経営の独立性を維持しながら株主構成を変更できる点がメリットです。
ただし、非上場株式は市場価格が形成されにくく、適正な売却価格の算定が難しいという問題があります。
株式譲渡制限や既存株主との契約内容によっては、自由に売却できない場合もあります。
このため、株式価値の算定、株主間契約、税務、法務を総合的に確認する必要があります。
ベンチャーキャピタルの投資回収にも変化
スタートアップの出口戦略の多様化は、ベンチャーキャピタルの経営にも影響します。
ベンチャーキャピタルは投資家から集めた資金をスタートアップに投資し、株式売却などによって投資収益を獲得します。
そのため、投資先企業が成長していても、株式を売却できなければ資金回収が進まないという問題があります。
IPO市場が低迷すると、投資資金の回収が遅れ、新たなスタートアップへの投資余力が制約される可能性があります。
M&Aやセカンダリー取引が活発になれば、投資回収の機会が増え、回収資金を次の成長企業へ投資する循環が生まれます。
これは日本のスタートアップ市場全体にとって重要な変化です。
今後は、IPOの実現件数だけでなく、M&Aやセカンダリー取引を含めた投資回収市場の厚みが、スタートアップ育成の成果を測る指標になると考えられます。
経営者が出口戦略を考える際の重要な視点
スタートアップの経営者にとって、出口戦略は単に会社を高く売却するための計画ではありません。
企業の成長可能性、資本政策、経営権、従業員の処遇、投資家への責任を総合的に考える必要があります。
特に重要なのは、出口戦略の検討を先送りしないことです。
資金繰りが悪化してからM&Aを検討すると、交渉上不利な立場に置かれる可能性があります。
また、IPO準備を進めている途中でも、企業価値を高く評価する買い手が現れることがあります。
こうした機会を適切に判断するためには、日頃から財務情報を整備し、事業計画の実現可能性を検証しておくことが必要です。
さらに、IPOとM&Aのどちらを選んでも対応できる内部統制、法務、税務、会計の管理体制を整えておくことが望まれます。
経営管理体制の強化は、IPOのためだけではありません。
M&Aにおける企業価値評価や買収監査への対応にも役立ちます。
結論
日本のスタートアップ市場は、IPOを中心とした成長モデルから、M&Aやセカンダリー取引を含む多様な出口戦略を選択する時代へ移行しつつあります。
グロース市場の上場維持基準の引上げは、スタートアップに対して上場後も持続的に成長する経営力を求めています。
一方、M&A市場の拡大は、IPO以外にも企業価値を実現する選択肢があることを示しています。
デロイトトーマツグループによるデュアルトラック戦略の支援は、こうした市場構造の変化を象徴する動きといえるでしょう。
ただし、IPOとM&Aの両方を検討すること自体が目的ではありません。
重要なのは、企業の長期的な成長、既存株主の利益、従業員の将来、税務上の負担などを総合的に比較し、最適な選択を行うことです。
これからのスタートアップ経営では、IPOできる会社をつくるだけでなく、IPOしてもM&Aを選んでも高い企業価値を評価される会社をつくることが重要になります。
出口戦略の多様化が進み、投資資金が次の成長企業へ循環する仕組みが整えば、日本のスタートアップ市場の持続的な発展にもつながると考えられます。
参考
日本経済新聞 2026年10月22日 「二兎追う新興、行くは難路 デロイトがIPOとM&Aの両にらみ支援」
東京証券取引所 グロース市場の上場維持基準の見直しに関する公表資料
国税庁 株式等を譲渡したときの課税に関する説明資料