世界的な大企業の監査報告書を見ると、PwC、デロイト、EY、KPMGといった巨大な監査ブランドの名前を目にします。
一般には、これらの組織が世界中に支店を持ち、1つの巨大な監査法人として活動しているように見えるかもしれません。
しかし実際には、国や地域ごとのメンバー事務所がそれぞれ独立した組織として運営されています。
この仕組みに大きな問題を投げかけているのが、中国恒大集団の不正会計をめぐる香港での訴訟です。
問われているのは、実際に監査を担当したメンバー事務所だけではありません。
PwCの国際ネットワークを束ねる中核組織まで責任を負う可能性があるのかという、監査業界全体に関係する問題に発展しています。
中国恒大では何が起きたのか
中国恒大集団をめぐっては、2019年から2020年にかけて総額5,640億元、日本円で約13兆円に相当する売上高の水増しが問題となりました。
非常に巨額の不正会計です。
中国当局は2024年に恒大を粉飾決算で処分しました。
そして監査を担当していたPwCの中国本土のメンバー事務所であるPwC中天についても、不正を隠蔽、容認したなどとして処分しました。
恒大は香港にも上場していたため、問題は中国本土だけでは終わりませんでした。
香港の証券・会計当局も調査を進め、2026年4月にはPwC香港に対しても罰金などの処分を科しています。
なぜPwCの中核組織まで訴えられたのか
今回特に注目されているのは、恒大の清算人が起こした損害賠償請求訴訟です。
訴えられたのはPwC中天とPwC香港だけではありません。
PwCの国際ネットワークを束ねるPwCインターナショナルも対象になっています。
清算人側は、国際的な中核組織にはメンバー事務所の監査品質を管理する責任があったと主張しています。
ここに今回の訴訟の核心があります。
PwCインターナショナル自身が恒大の監査を直接行っていたわけではありません。
それでも、世界共通のブランドを使用させ、監査品質を管理し、メンバー事務所に一定のルールを求めていたのであれば、その管理について法的な責任が発生するのではないかという問題です。
ビッグ4は1つの巨大企業ではない
PwCなどのビッグ4を理解するうえで重要なのが、国際ネットワークの構造です。
世界各国のメンバー事務所は、基本的にはそれぞれ独立した組織です。
したがって、ある国のメンバー事務所が監査上の問題を起こしたからといって、当然に世界全体の中核組織が法的責任を負うわけではありません。
この構造には合理性があります。
世界各国では会社法、税法、会計制度、監査制度などが異なるからです。
それぞれの国で資格を持つ専門家が、その国の法制度に基づいて業務を行う必要があります。
一方で、顧客や投資家から見れば少し違います。
監査報告書にPwCという名前があれば、世界共通のPwCブランドに対する信頼によって監査品質を評価している面があります。
ここに法律上の組織構造と、社会から見たブランドの一体性とのズレがあります。
独立しているのに品質管理するという難しさ
国際的な監査ネットワークは、難しい立場にあります。
メンバー事務所は独立した組織だと説明する一方で、世界共通の監査品質を確保するためには、中核組織が一定の管理をしなければなりません。
研修制度を整えたり、監査手法を標準化したり、品質レビューを実施したりする必要があります。
ところが管理を強化すればするほど、別の問題が生じます。
それほど強い管理権限を持っているのであれば、メンバー事務所で重大な監査上の問題が発生した場合、中核組織にも責任があるのではないかという議論につながるからです。
つまり、
独立性を強調すれば世界共通ブランドとの整合性が問題になり、
管理を強調すれば中核組織の責任が問題になる、
という構造です。
香港高等法院は何を判断したのか
今回の裁判で注意しなければならないのは、現時点でPwCインターナショナルの過失や損害賠償責任が認定されたわけではないことです。
PwCインターナショナルは、自ら恒大を直接監査していないことなどを理由に、訴訟対象から外すよう求めていました。
しかし香港高等法院は2026年8月、この請求を退けました。
裁判所は、中核組織がメンバー事務所に対してどの程度の権限を持っていたのか、注意義務が存在したのかについて審理する余地があると判断したことになります。
今後は実際の品質管理制度やレビュー体制などが詳しく検討されることになります。
中核組織がどこまで監査品質に関与していたのかが重要になります。
賠償請求額が1兆円を超える意味
今回の問題が世界の監査業界から注目されるもう1つの理由が、請求金額の大きさです。
恒大の清算人による3社への賠償請求額は最大約580億元、日本円で約1兆3,000億円規模とされています。
恒大は2024年1月に香港高等法院から清算命令を受けています。
清算人にとって重要なのは、債権者への弁済原資を少しでも多く確保することです。
そのため、監査を担当したメンバー事務所だけでなく、より広い範囲で責任を追及する経済的な理由があります。
もっとも、請求額がそのまま賠償額として認められるわけではありません。
実際の責任範囲や因果関係などは今後の裁判で争われることになります。
過去にも同じ問題が争われている
国際会計事務所の中核組織の責任が問題になったのは今回が初めてではありません。
2003年に発覚したイタリアの食品大手パルマラットの巨額不正経理事件でも、似た問題が争われました。
監査を担当していたのはデロイトなどの現地メンバー事務所でした。
機関投資家は、国際ネットワークの中核組織にも管理責任があるとして米国で訴訟を起こしました。
しかし2009年に和解が成立したため、中核組織がどこまで責任を負うのかについて明確な司法判断は示されませんでした。
その意味でも、今回の恒大事件は重要です。
裁判が本格的な審理まで進めば、国際監査ネットワークの責任範囲について新しい判断が示される可能性があります。
監査法人の商品は信用である
今回の問題を単なる監査ミスの問題として見ると、本質を見失います。
監査法人が企業に提供しているものは監査手続だけではありません。
最終的に提供している重要な価値の1つが信用です。
投資家は監査法人の名前を見て、財務諸表について一定の監査が行われていると判断します。
だからこそ、世界共通のブランドには大きな価値があります。
ところが問題が発生したときだけ、各メンバー事務所は独立しているため国際組織には責任がないという説明になれば、ブランドの価値と責任の範囲にずれが生じます。
世界共通ブランドによって信用を得るのであれば、その信用を支える品質管理を誰が担い、問題が起きた場合に誰が責任を負うのか。
恒大事件は、この根本的な問題を突きつけています。
結論
中国恒大の不正会計をめぐる訴訟で重要なのは、PwCの監査責任だけではありません。
国際的な監査ネットワークという仕組みそのものが問われています。
ビッグ4の各国メンバー事務所は法律上、それぞれ独立しています。
一方で顧客や投資家は、PwCなど世界共通のブランドを見て監査品質への信頼を形成しています。
さらに中核組織は、そのブランドを維持するためにメンバー事務所の品質管理にも関与しています。
独立した組織でありながら、世界共通のブランドと品質を提供する。
この仕組みの中で、権限と責任をどこまで一致させるべきなのかが今回の裁判の大きな論点です。
監査法人にとって最も重要な資産の1つは信用です。
恒大事件は、世界共通のブランドを掲げる以上、世界共通の品質だけでなく、その品質に対する責任のあり方まで問われる時代になっていることを示しています。
参考
日本経済新聞 2026年9月29日朝刊 恒大不正、逃げられぬPwC