給料が毎年3%ずつ増えていると聞けば、生活が少しずつ豊かになっているように思えるかもしれません。
しかし、同じ時期に物価が5%ずつ上昇していたらどうでしょうか。
給料の金額は増えていても、買える商品やサービスの量は減ってしまう可能性があります。
働く人にとって重要なのは、給料が何円増えたかだけではありません。その給料でどれだけの商品やサービスを買えるのかです。
そこで重要になるのが実質賃金とインフレ期待です。
「来年も物価が上がる」と考える人が増えれば、現在の賃金交渉にも将来の物価上昇を織り込もうとする動きが出てきます。
将来についての期待が、現在の賃金を動かす可能性があるのです。
名目賃金と実質賃金は何が違うのか
まず、名目賃金と実質賃金の違いを理解する必要があります。
名目賃金とは、実際に受け取る給料の金額です。
例えば月給30万円だった人の給料が31万5000円になれば、名目賃金は5%上昇しています。
しかし、同じ期間に物価も5%上昇していたとします。
給料は5%増えていますが、商品やサービスの価格も5%上がっています。
単純化すれば、給料で買えるものの量はほとんど増えていません。
このように物価の変化を考慮した賃金が実質賃金です。
家計の生活水準を考えるときには、名目賃金だけでなく実質賃金を見る必要があります。
物価が賃金より上がれば生活は苦しくなる
例えば月給30万円で生活している人がいるとします。
毎月必要な生活費が25万円だったとします。
ところが食品、光熱費、家賃、サービス料金などが値上がりし、同じ生活をするために26万円必要になりました。
給料が30万円のままなら、自由に使えるお金は減ります。
名目賃金は下がっていません。
それでも生活が苦しく感じられます。
物価上昇によって実質的な購買力が低下したからです。
この経験が続けば、働く人は賃金交渉で物価を強く意識するようになります。
賃金交渉では将来の物価も重要になる
賃金交渉は、過去の物価上昇だけを見て行われるとは限りません。
これから物価がどうなるかも重要です。
例えば現在の物価上昇率が3%だったとします。
しかし働く人が、
来年は物価上昇率が5%になる
と予想しているとします。
その人にとって、来年の賃金が2%しか上昇しなければ、実質的な購買力が低下する可能性があります。
そこで、
来年の物価上昇を考えれば、もっと賃金を上げてほしい
という要求につながります。
将来の物価についての期待が、現在の賃金交渉へ入り込むわけです。
予想物価上昇率が賃上げ要求の基準になる
働く人が現在の生活水準を維持したいと考えた場合、予想する物価上昇率は賃上げ要求を考える一つの基準になります。
例えば来年の物価が2%上昇すると予想しているとします。
給料も2%程度増えれば、単純化すれば実質的な購買力を維持できます。
一方、来年の物価が5%上昇すると予想しているなら、2%の賃上げでは足りません。
このためインフレ期待が高くなるほど、
より大きな賃上げが必要だ
という認識が生まれやすくなります。
インフレ期待は家計の消費だけではなく、労働市場にも影響するのです。
企業側も将来の物価を考える
将来の物価を考えるのは働く人だけではありません。
企業も将来のコストや販売価格を予想しています。
例えば企業が、
来年も販売価格を引き上げられる
と考えているとします。
商品価格を上げることができれば、売上高も増える可能性があります。
その増加分を賃上げの原資にできるかもしれません。
一方、
価格を上げれば顧客が離れてしまう
と考えている企業では、人件費が上昇しても販売価格へ転嫁できません。
利益が圧迫されるため、大幅な賃上げには慎重になるでしょう。
賃金と物価の関係を考えるときには、企業が価格をどれだけ引き上げられるかも重要になります。
賃金が上がると企業のコストも増える
賃上げは家計の所得を増やします。
一方、企業から見ると人件費の増加です。
例えば従業員の賃金を5%引き上げたとします。
企業がそのコスト増加を吸収できれば、商品価格を変える必要はありません。
しかし利益だけでは吸収できなければ、
販売価格を引き上げよう
と考える可能性があります。
すると、
物価上昇
賃上げ要求
賃金上昇
企業のコスト上昇
価格引き上げ
という循環が生まれることがあります。
賃金と物価の好循環とは何か
賃金と物価がともに上昇することが、必ず悪いわけではありません。
企業の売上や利益が増え、生産性も向上し、その成果が賃金へ還元されるのであれば、経済全体の所得が増えていく可能性があります。
例えば企業が適正に価格を引き上げます。
利益が増えます。
その利益を使って賃金を引き上げます。
所得が増えた家計が消費を増やします。
企業の売上がさらに増えます。
このような循環が続けば、賃金と物価がともに緩やかに上昇する経済になります。
重要なのは、物価だけが上昇するのではなく、賃金も持続的に上昇することです。
物価だけが先に上がると家計は苦しくなる
逆に、輸入価格や資源価格の上昇によって物価だけが先に上昇する場合があります。
例えば原油価格が上昇します。
電気料金やガソリン価格が上がります。
物流費も増えます。
企業がそのコストを商品価格へ転嫁します。
しかし企業の生産性や利益が十分に増えていなければ、賃金を大きく上げることは難しいかもしれません。
すると、
物価は5%上昇した
賃金は2%しか上昇しなかった
という状態になります。
この場合、実質賃金は低下します。
家計の生活水準を維持するためには、より大きな賃上げ要求が出やすくなります。
インフレ期待が賃金交渉を先回りさせる
インフレ期待が重要なのは、実際に物価が上がった後だけでなく、上がる前から行動を変える可能性があることです。
例えば、
来年は4%程度の物価上昇が続くだろう
という見方が社会に広がったとします。
まだ実際に4%上昇していなくても、働く人は将来の生活費増加を考えて賃上げを求めるかもしれません。
企業側も、
人件費が上がる
原材料費も上がる
と予想して、将来の販売価格を検討します。
つまり期待が先に変わり、その期待をもとに現在の賃金や価格が決められることがあります。
高すぎるインフレ期待には注意が必要になる
インフレ期待が賃金へ反映されることには、別の面もあります。
例えば多くの人が、
来年は物価が10%上昇する
と考えるようになったとします。
働く人は10%程度の賃上げを求めるかもしれません。
企業は人件費の大幅な上昇を予想して、あらかじめ商品価格を引き上げる可能性があります。
その値上げを見た家計が、
やはり物価は大幅に上がる
と考えれば、さらに高い賃上げを求めるかもしれません。
期待が実際の賃金や価格を動かし、その結果が再び期待を強める可能性があります。
だからこそ中央銀行は、インフレ期待が物価目標から大きく離れないことを重視します。
2%の物価目標と賃金にも関係がある
日本銀行が2%の物価安定の目標を掲げる意味も、賃金との関係から考えることができます。
仮に家計や企業の間で、
中長期的な物価上昇率は2%程度になる
という見方が定着したとします。
働く人も企業も、その程度の物価上昇を前提として賃金や価格を考えやすくなります。
逆に、将来の物価が0%になるのか5%になるのか10%になるのか分からなければ、長期的な賃金や価格を決めにくくなります。
物価目標には、将来の賃金や価格を決める際の一つの目安を提供する役割もあるのです。
結論
インフレ期待が賃上げ要求につながる理由は、働く人が給料の金額だけでなく、その給料でどれだけの商品やサービスを購入できるのかを考えるからです。
来年も物価が上昇すると予想すれば、現在と同じ生活水準を維持するために必要な給料も増えます。
そのため将来の物価上昇率についての予想が、現在の賃金交渉へ影響する可能性があります。
さらに賃金が上昇すると、企業にとっては人件費が増えます。
企業がそのコストを販売価格へ転嫁すれば、物価がさらに上昇する可能性があります。
このように、物価への期待、賃金、企業の価格設定は互いにつながっています。
重要なのは、物価だけが上昇することではありません。
企業の生産性や利益が伸び、賃金も持続的に上昇することで家計の購買力が維持されることです。
将来の物価についての予想は、未来を想像しているだけの数字ではありません。
「来年の給料はいくら必要なのか」という現在の賃金交渉にも影響します。
インフレ期待を理解することは、物価だけでなく、なぜ賃金が動くのかを理解することにもつながるのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月2日朝刊 家計の「期待」と経済(3) 人間は合理的ではない