人的資本経営への関心が高まっています。
社員を単なる費用ではなく、企業価値を生み出す資本として捉え、人材育成や能力開発に積極的に投資する考え方です。
研修を充実させる。リスキリングを支援する。デジタル人材を育成する。キャリア形成を支援する。
こうした取り組みは、企業が長期的に競争力を高めるうえで重要です。
しかし、人材への投資額を増やせば、それだけで社員が主体的に働くようになるとは限りません。
どれだけ高い能力を持っていても、「この会社のために能力を使いたい」と思わなければ、その能力は十分に発揮されないからです。
静かな退職という問題は、人的資本経営では人材に何を投資するかだけでなく、投資した人的資本を社員自身が発揮したいと思える職場をつくることが重要であることを示しています。
人的資本への投資とは何か
人的資本とは、働く人が持っている知識、技能、経験、能力などを資本として捉える考え方です。
企業が機械や設備に投資するように、人にも投資することで将来の価値を高めることができます。
代表的なのが教育や研修です。
新しい専門知識を学ぶ。
デジタル技術を身につける。
管理職としての能力を高める。
資格取得を支援する。
新しい職務を経験する。
こうした機会を提供することで、社員が持つ人的資本を高めることができます。
ただし、人的資本経営では、能力を増やすことだけを考えていては十分ではありません。
その能力を実際の仕事で発揮できるかという問題があります。
能力を持つことと発揮することは違う
社員が高い能力を持っているからといって、その能力を常に会社のために最大限使うとは限りません。
専門知識を持っている。
豊富な経験がある。
新しいアイデアもある。
しかし、提案しても評価されない。
新しいことをすると仕事だけ増える。
上司に意見を言っても否定される。
会社の意思決定が不公平だと感じる。
こうした職場では、社員は自分の能力を必要最低限しか使わなくなる可能性があります。
能力がなくなったわけではありません。
会社との関係の中で、その能力を積極的に提供する理由が弱くなっているのです。
研修を増やすだけでは不十分な理由
人的資本経営という言葉が広がると、人材投資を研修費の増加と考えてしまう場合があります。
研修時間を増やす。
オンライン講座を増やす。
資格取得制度を充実させる。
もちろん、これらには意味があります。
しかし、研修で新しい能力を身につけても、実際の仕事で使う機会がなければ、その能力は十分に生かされません。
新しい知識を学んだのに、従来と同じ単純な仕事だけを担当する。
改善方法を学んでも、上司が新しい方法を認めない。
デジタル能力を身につけても、仕事のやり方を変える裁量がない。
これでは、社員は「何のために学んだのだろう」と感じる可能性があります。
学習機会そのものが負担になることもある
研修を増やせばよいという考え方には、もう一つ注意すべき点があります。
社員がすでに多くの仕事を抱えている場合です。
通常業務を減らさないまま、
研修を受けてください。
資格を取ってください。
新しい技術を学んでください。
リスキリングしてください。
と求めれば、人材投資が新しい負担になる可能性があります。
研修時間が勤務時間に十分組み込まれず、仕事の後や休日に学ぶことを事実上求められれば、社員は疲弊します。
人材育成を進めるのであれば、学ぶ時間を確保することも必要です。
人材投資は、社員に新しい課題を追加することとは違います。
能力を発揮できる職場づくり
人的資本を企業価値につなげるには、社員が能力を発揮できる環境が必要です。
そのためには、仕事そのものの設計を見る必要があります。
本人の能力に合った仕事を任せているか。
一定の裁量を与えているか。
新しい方法を試すことができるか。
失敗したときに学習できる環境があるか。
上司から適切な支援を受けられるか。
こうした条件が整って初めて、社員が持つ能力を仕事で使いやすくなります。
人的資本への投資と、仕事の設計は切り離して考えることができません。
ワークエンゲイジメントが重要になる
人的資本を生かすうえで重要になるのが、ワークエンゲイジメントです。
ワークエンゲイジメントは、仕事に関連する前向きで充実した心理状態で、活力、熱意、没頭によって特徴づけられます。
能力を持っているだけでなく、その能力を仕事に使いたいと思えることが重要です。
同じ能力を持つ社員でも、
この仕事には意味がある。
自分の能力を生かせる。
もっと良い仕事をしたい。
この職場に貢献したい。
と思っている場合と、
求められた範囲だけやればよい。
余計な提案をしても意味がない。
頑張っても報われない。
と思っている場合では、組織に提供される力は大きく異なります。
人的資本の量だけでなく、その人的資本がどの程度発揮されているかを見る必要があります。
静かな退職は人的資本が消えることではない
静かな退職では、社員の能力そのものがなくなるわけではありません。
知識もあります。
経験もあります。
技能もあります。
会社にも在籍しています。
しかし、それらを積極的に会社のために使わなくなります。
以前なら改善案を出していた。
以前なら後輩に知識を教えていた。
以前なら新しい仕事に手を挙げていた。
それをやめて、正式に求められた範囲だけ仕事をするようになります。
人的資本は社内に存在しているのに、その利用率が下がっている状態と考えることができます。
この点が、実際の離職とは異なります。
人的資本の利用率という視点
たとえば、ある社員が百の能力を持っているとします。
会社がその社員に百の能力を発揮できる環境を用意できれば、人的資本を十分に生かせます。
しかし、仕事への意欲を失い、六十の能力しか仕事に投入しなくなったとします。
それでも担当業務が五十の能力で処理できれば、表面的には問題がありません。
人事評価も一定水準を維持するかもしれません。
しかし、会社から見れば四十の能力が活用されていないことになります。
人的資本経営では、社員がどれだけ能力を持っているかだけでなく、その能力をどれだけ発揮したいと思っているかという視点が必要です。
自律性を満たす
自己決定理論では、人の主体的な動機づけを支える基本的な心理欲求として、自律性、有能感、関係性が挙げられます。
自律性とは、自分で選択し、自分の意思で行動していると感じられることです。
会社が研修を提供しても、その後の仕事の方法をすべて細かく指示すれば、社員は自律性を感じにくくなります。
目的や守るべきルールを明確にしたうえで、仕事の進め方には一定の裁量を与える。
新しい方法を試す余地をつくる。
本人のキャリアについて希望を聞く。
こうした環境が、社員の主体性を支えます。
有能感を満たす
有能感とは、自分の能力を発揮できている、成長できていると感じることです。
社員に研修を受けてもらうだけでは、有能感につながるとは限りません。
学んだことを実際に使う。
少し難しい仕事に挑戦する。
成果についてフィードバックを受ける。
以前できなかったことができるようになる。
こうした経験によって有能感が生まれます。
能力開発と仕事の機会をつなげることが重要です。
研修の修了者数ではなく、学んだ能力が実際の仕事で使われているかを見る必要があります。
関係性を満たす
関係性とは、周囲の人とつながっている、自分が組織の一員として受け入れられていると感じることです。
リモートワークが広がると、自律性は高まる一方で、関係性が弱くなる場合があります。
同僚との何気ない交流。
上司からのフィードバック。
周囲からの感謝。
チームとして仕事を達成する経験。
こうした機会が減れば、仕事が個人のタスク処理になりやすくなります。
人的資本経営では、個人の能力開発だけでなく、人と人とのつながりも重要な経営資源として考える必要があります。
公平な評価も人的資本を左右する
社員が能力を発揮するためには、努力や成果が公平に扱われるという信頼も必要です。
高い成果を出しても評価されない。
新しい仕事に挑戦しても失敗だけを責められる。
周囲を支援しても評価されない。
昇進基準が不透明である。
こうした状態では、社員は「必要以上に頑張らない方が合理的だ」と考える可能性があります。
給与水準だけでなく、評価の手続きや上司からの承認なども、人的資本を引き出す条件になります。
人材投資とワークエンゲイジメント
人材投資とワークエンゲイジメントは、別々のものではありません。
能力を高める投資によって、
できることが増えた。
新しい仕事に挑戦できた。
自分の成長を実感できた。
会社から期待されていると感じた。
という経験が生まれれば、ワークエンゲイジメントを高める可能性があります。
一方で、
研修だけ受けさせられた。
仕事は何も変わらない。
研修時間の分だけ忙しくなった。
学んでも評価されない。
という状態であれば、人材投資がエンゲイジメントにつながらないこともあります。
投資額ではなく、社員がその投資をどのような経験として受け止めているかを見る必要があります。
生成AI時代には人的資本の意味も変わる
生成AIの普及によって、社員に求められる能力も変化していきます。
これまで人が時間をかけて行っていた仕事をAIが短時間で処理するようになれば、単純に現在の能力を高めるだけでは十分ではありません。
AIを使って何をするのか。
人間はどこで判断するのか。
どのような価値を顧客に提供するのか。
仕事そのものを再設計する必要があります。
その過程に社員自身が関わることが重要です。
会社が一方的に「AIを使いなさい」と指示するだけではなく、社員が自分の仕事をどう変えるかを考えられる環境をつくることが、人的資本経営の新しい課題になります。
人的資本経営の目的は人を最大限働かせることではない
人的資本という言葉には注意も必要です。
人を資本として考えることが、「社員から最大限の労働力を引き出す」という意味になってはいけません。
常に百パーセントの力で働くことを求めれば、人は疲弊します。
人的資本を長期的に生かすためには、休息や回復も必要です。
仕事と私生活の境界を守る。
必要な休暇を取る。
無理な仕事量を減らす。
長期間働き続けられる環境をつくる。
こうしたことも人的資本を維持するための重要な投資です。
短期的に最大限働かせることと、長期的に能力を発揮してもらうことは同じではありません。
結論
人的資本経営とは、人材への投資額を増やすことだけではありません。
研修やリスキリングによって社員の能力を高めることは重要ですが、その能力を発揮したいと思える職場がなければ、投資した人的資本は十分に企業価値へつながりません。
静かな退職では、社員の知識や経験、技能が失われるわけではありません。
社員も会社に残っています。
しかし、仕事への心理的な関与が低下し、持っている能力を必要最低限しか使わなくなる可能性があります。
人的資本は存在しているのに、その利用率が低下している状態とも考えられます。
だからこそ企業には、研修を増やすだけでなく、社員が能力を発揮できる仕事をつくり、一定の裁量を与え、成果を公平に評価し、適切な承認とフィードバックを行うことが求められます。
そして、自律性、有能感、関係性といった心理的な条件を整え、社員が「この仕事に関わりたい」「この職場で自分の能力を使いたい」と思える環境をつくることが重要です。
人的資本経営で問われるのは、会社が人にいくら投資したかだけではありません。
投資された人が、その能力を自ら使いたいと思える会社になっているかです。
静かな退職という現象は、人的資本経営の本当の成果が、人材投資額ではなく、人と仕事との関係に表れることを示しているのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年8月19日朝刊 「静かな退職」どう防ぐか(下) 心理的な背景 見極め対応を