人的資本経営はなぜ制度導入だけでは失敗するのか 経営戦略と人材戦略をつなぐ方法編

経営

人的資本経営という言葉が広く使われるようになりました。

企業が社員を単なる人件費ではなく、将来の企業価値を生み出す資本として捉え、人材へ積極的に投資するという考え方です。

そこで企業では、リスキリング、エンゲージメント調査、ジョブ型人事、社内公募、キャリア研修など、さまざまな制度が導入されています。

しかし、新しい人事制度を増やせば人的資本経営が実現するわけではありません。

どれほど立派な制度をつくっても、それが会社の経営戦略や現場の仕事と結びついていなければ、制度を利用すること自体が目的になってしまいます。

人的資本経営で本当に問われるのは、人事施策をいくつ実施したかではありません。

人への投資によって企業の戦略をどのように実現するのかです。

人的資本経営とは何か

人的資本とは、人が持つ知識、能力、経験、技能などを企業価値を生み出す資本として捉える考え方です。

機械や工場などへの投資と同じように、人材についても投資によって価値を高められると考えます。

例えば社員が新しい技術を学べば、これまでできなかった仕事ができるようになります。

海外事業を経験すれば、海外市場で事業を運営できる人材に成長する可能性があります。

新規事業を経験すれば、新しい市場を開拓できる能力を身につけるかもしれません。

つまり、人材への投資によって企業が持つ能力そのものを高めることができます。

これが人的資本経営の基本的な考え方です。

研修を増やすことが目的ではない

人的資本経営への関心が高まると、

研修時間を増やす

研修費用を増やす

資格取得を支援する

といった施策が注目されます。

もちろん、社員の学習を支援することは重要です。

しかし、研修を増やすこと自体が目的になってしまうと問題があります。

例えば会社が今後、海外事業を成長させたいとします。

それなのに、経営戦略とはほとんど関係のない研修を大量に実施しても、海外事業を担える人材は増えません。

重要なのは、

どの経営戦略を実現するために

どの能力が必要で

どの人材に

どのような経験や学習を提供するのか

というつながりです。

人的資本への投資は、経営戦略から逆算して考える必要があります。

人事制度改革だけでは足りない

企業が人的資本経営を進める際、人事制度そのものを変更することがあります。

ジョブ型人事を導入する。

評価制度を変える。

社内公募制度を導入する。

キャリア研修を始める。

こうした制度にはそれぞれ意味があります。

しかし、制度を導入しただけでは働き方は変わりません。

例えば社内公募制度を導入しても、上司が、

優秀な部下を手放したくない

と考えて応募を事実上妨げれば、制度は機能しません。

会社が挑戦を推奨しても、失敗した社員の評価を下げれば、社員は挑戦しなくなります。

制度と現場の行動が一致していなければ、人的資本経営は形だけになってしまいます。

経営戦略と人材戦略をつなぐ

人的資本経営で最も重要なのが、経営戦略と人材戦略の連動です。

例えば企業が、

五年後にAI関連事業を主要事業にする

という経営戦略を掲げたとします。

そこで人事部門は、

どのようなAI人材が必要なのか

何人必要なのか

現在何人いるのか

何人を育成できるのか

何人を外部から採用するのか

どのような組織をつくるのか

を考えます。

経営戦略が人材戦略に具体化されるわけです。

逆に、必要な人材を短期間では確保できないことが分かれば、

事業拡大の速度を変える

外部企業と提携する

企業買収で人材を獲得する

といった経営戦略の修正も考えられます。

人材戦略が経営戦略へ影響を与えることもあるのです。

人材ポートフォリオが橋渡しになる

経営戦略と人材戦略を結びつける方法の一つが人材ポートフォリオです。

将来必要になる人材と現在の人材を比較します。

例えば三年後に、

デジタル人材百人

海外事業人材五十人

新規事業人材三十人

が必要だとします。

現在の人数と比較すれば、不足している人材が分かります。

その不足を、

採用

育成

配置転換

外部人材の活用

などによって埋めます。

こうすることで、人材施策が経営戦略から切り離された活動になることを防ぎやすくなります。

人的資本情報の開示だけでも足りない

人的資本経営では、企業が人材に関する情報を開示する動きも広がっています。

例えば、

女性管理職比率

男女間賃金差異

研修時間

離職率

エンゲージメント

などです。

これらの情報は企業の人材戦略を理解するうえで重要です。

しかし、数字を開示すること自体が人的資本経営ではありません。

例えば研修時間が増えていても、その研修によって経営戦略に必要な能力が高まっているとは限りません。

離職率が低くても、必要な人材が社内に残っているとは限りません。

重要なのは、

その数字が企業価値とどうつながっているのか

を考えることです。

現場を巻き込む必要がある

人的資本経営を人事部門だけで進めることはできません。

社員の日常的な仕事や育成を担っているのは、現場の管理職だからです。

例えば人事部門が、

社員にもっと裁量を与える

という方針を決めても、現場の上司がすべて細かく指示すれば社員の自律性は高まりません。

会社が、

新しいことに挑戦してほしい

と言っても、上司が短期的な失敗だけを見て評価を下げれば、社員は挑戦しません。

人的資本経営を実現するには、人事制度だけでなく管理職の日常的なマネジメントまで変える必要があります。

社員本人も当事者になる

人的資本経営では、社員自身も受け身ではいられません。

会社から研修を与えられるのを待つだけではなく、

自分はどのような仕事をしたいのか

どの能力を身につけたいのか

どのような経験が必要なのか

を考える必要があります。

企業は成長機会を提供する。

社員はその機会を選択する。

双方が参加することで、人材投資が実際のキャリア形成につながります。

人的資本経営とキャリア自律が密接に関係するのはこのためです。

経験への投資も人的資本投資である

人材投資というと研修費を思い浮かべがちですが、実際の仕事を経験させることも重要な投資です。

例えば将来の海外事業責任者を育成したいのであれば、座学だけでは十分ではありません。

海外勤務を経験させる。

現地法人の経営に参加させる。

海外企業との交渉を任せる。

国際的なプロジェクトを担当させる。

こうした経験が必要です。

新規事業人材を育てる場合も同じです。

研修で新規事業の理論を学ぶだけでなく、実際に事業を立ち上げ、失敗や試行錯誤を経験することが重要になります。

人への投資とは、教育費を増やすことだけではありません。

社員にどのような仕事を経験させるかまで含まれます。

短期成果だけを求めると矛盾が起きる

人的資本への投資には時間がかかります。

研修を受けた翌日に会社の利益が増えるわけではありません。

若手社員に新しい仕事を経験させれば、最初は生産性が下がることもあります。

新規事業へ挑戦すれば失敗することもあります。

ところが、人事評価や経営管理が短期成果だけを重視していると、

育成より目先の売上

挑戦より失敗回避

となりやすくなります。

長期的な人材育成を掲げながら、短期業績だけで社員を評価する。

この矛盾を解消しなければ、人的資本経営は機能しません。

人材投資の成果をどう考えるのか

人材投資には成果の確認も必要です。

ただし、

研修参加者数

研修時間

資格取得者数

だけを見るのでは不十分です。

例えば、

必要な能力を持つ社員が増えたか

新しい事業へ人材を配置できたか

生産性が向上したか

社内異動が活発になったか

重要人材が定着したか

新しい商品やサービスが生まれたか

など、経営や組織の変化を見る必要があります。

人的資本経営では、人事施策を実施したかどうかではなく、それによって企業の能力がどう変わったのかを見ることが重要です。

生成AI時代ほど経営戦略との連動が必要になる

生成AIによって仕事の内容が急速に変われば、必要な人材も変わります。

これまで重要だった能力の価値が下がることもあれば、新しい能力が必要になることもあります。

そのため、

全社員に同じAI研修を実施する

だけでは十分ではありません。

自社の経営戦略ではAIをどこで使うのか。

どの仕事をAIに任せるのか。

人間にはどのような役割を残すのか。

そのために誰を育成するのか。

ここまで考える必要があります。

技術が変わるほど、人事施策を経営戦略から逆算する重要性は高まります。

人的資本経営に完成形はない

人的資本経営では、

この制度を導入すれば完成

というものはありません。

経営戦略が変われば必要な人材も変わります。

社員の能力が高まれば、新しい経営戦略を選べるようになります。

社員のキャリア観も変化します。

技術も変化します。

つまり、

経営戦略

組織

人材

キャリア

は互いに影響しながら変わり続けます。

人的資本経営とは、その関係を継続的に調整する経営そのものと考えることができます。

結論

人的資本経営とは、新しい人事制度を導入したり、研修費を増やしたり、人的資本情報を開示したりすること自体ではありません。

本来の目的は、人材への投資によって企業の能力を高め、経営戦略の実現につなげることです。

そのためには、

経営戦略から必要な人材を考える

現在の人材との差を把握する

採用や育成、配置によって差を埋める

現場の管理職を巻き込む

社員自身にもキャリア形成へ参加してもらう

という一連の仕組みが必要になります。

そして、人材の現実によって経営戦略そのものを見直すこともあります。

経営戦略が人材戦略を決め、人材の成長が次の経営戦略を可能にする。

人的資本経営の本質は、この循環をつくることにあります。

制度をいくつ導入したかではなく、人が成長した結果として会社が何をできるようになったのか。

そこまで問うことが、人的資本経営を単なる人事改革で終わらせないために重要なのです。

参考

日本経済新聞 2026年8月14日朝刊 新しい企業戦略を考える(下) 人事の真の価値を問い直せ

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