日本の社会保障制度は、人口減少と高齢化という大きな構造変化に直面しています。
高齢者人口の増加によって医療や介護の需要が高まる一方、社会保障制度を支える現役世代の人口は減少しています。
こうした中、医療費や介護費の増加を抑えながら、国民の健康と生活の質を維持することが重要な政策課題となっています。
その解決策の一つとして注目されているのが、運動習慣の定着による疾病予防と介護予防です。
スポーツ庁が2026年10月11日に公表した2025年度の体力・運動能力調査によると、60代から70代の男女の体力は、約25年前と比較して大きく向上しました。
2001年度の体力合計点を100%とした場合、2025年度の60代男性は114.1%、女性は118.2%となっています。
70代でも男性109.8%、女性114.7%と改善しています。
一方、30代から40代の働く世代では体力低下が確認されました。
特に40代女性では、2001年度を100%とした体力合計点が93.6%となっています。
高齢者の体力が向上する一方で、働く世代の体力が低下していることは、将来の社会保障制度を考えるうえでも見逃せない問題です。
運動不足は、生活習慣病や身体機能の低下などと関連しており、長期的には医療や介護の需要に影響する可能性があります。
今回は、運動不足と医療費、介護費の関係を整理するとともに、予防政策の経済効果、企業や自治体の役割、人生100年時代の社会保障制度について考えてみます。
日本の社会保障制度は人口構造の変化に直面している
日本の社会保障制度では、公的医療保険や介護保険、公的年金などを通じて、国民の生活を支えています。
医療保険では、病気やけがをした際の医療費について、一定割合を保険給付で賄う仕組みが設けられています。
介護保険では、要介護認定などを受けた人が、必要な介護サービスを利用できる制度となっています。
こうした制度は、保険料や税金などによって支えられています。
しかし、少子高齢化が進む中、社会保障制度の持続可能性が大きな課題となっています。
高齢者人口が増えれば、医療や介護を必要とする人も増加する可能性があります。
一方、生産年齢人口が減少すれば、保険料を負担する現役世代の人数も減少します。
もちろん、高齢者も保険料や税金を負担しており、社会保障制度を支えているのは現役世代だけではありません。
それでも、人口構造の変化が制度財政に与える影響は大きいと考えられます。
こうした状況では、医療や介護が必要になった人を適切に支援することに加えて、できるだけ健康な状態を維持できるようにする予防政策が重要になります。
運動不足は生活習慣病のリスクと関係する
運動不足は、さまざまな健康問題と関連しています。
世界保健機関は、身体活動の不足が心血管疾患や2型糖尿病などのリスクと関係することを示しています。
また、適切な身体活動は、身体機能の維持や健康状態の改善に役立ちます。
例えば、ウォーキングなどの有酸素運動は、心肺機能の維持や血圧管理などに役立つ場合があります。
筋力トレーニングは、筋力や身体機能の維持に効果が期待できます。
こうした運動習慣は、生活習慣病の予防や健康管理を支える重要な要素です。
ただし、生活習慣病の発症には、食生活、喫煙、飲酒、遺伝的要因、加齢など、さまざまな要因が関係します。
そのため、運動不足だけが疾病の原因であると考えることは適切ではありません。
また、運動習慣があっても病気になることはあります。
重要なのは、運動を健康管理の一つの手段として位置づけ、食事や睡眠などの生活習慣と組み合わせて取り組むことです。
予防政策では、個人の努力だけに依存せず、健康的な生活を送りやすい環境を整える必要があります。
働く世代の体力低下が将来の医療需要に影響する可能性
スポーツ庁の2025年度調査では、30代から40代の働く世代で体力低下が確認されました。
2001年度の体力合計点を100%とした場合、2025年度の30代女性は96.3%、40代女性は93.6%、40代男性は98.8%となっています。
特に40代女性では6.4%の低下となりました。
一方、60代から70代の男女では体力が向上しています。
この結果は、働く世代の健康管理を考えるうえで重要です。
30代から40代は、仕事や家事、育児、介護などによって、運動する時間を確保しにくい時期でもあります。
また、デスクワーク中心の仕事では、長時間座り続ける生活になりがちです。
こうした生活が長期間続けば、身体活動量の不足による健康リスクが高まる可能性があります。
ただし、今回の体力調査だけで、将来の医療費が増加すると予測することはできません。
体力合計点と医療費の関係を直接示した調査ではないためです。
それでも、働く世代から運動習慣を身につけることは、将来の健康状態を維持するための重要な取り組みといえます。
高齢期になってから疾病予防に取り組むだけでなく、現役時代から健康管理を続けることが望まれます。
介護費用の増加を考えるうえで筋力低下が重要になる
高齢期の健康管理では、生活習慣病の予防だけでなく、身体機能の維持も重要です。
加齢に伴って筋力やバランス能力が低下すると、転倒や骨折などのリスクが高まる場合があります。
また、身体活動量が減少することで、筋力がさらに低下するという悪循環が生じる可能性があります。
こうした身体機能の低下は、日常生活の自立度にも影響します。
例えば、歩行能力が低下すると、買い物や外出が難しくなる場合があります。
立ち上がる動作や階段の昇降が困難になれば、日常生活で支援が必要になることもあります。
そのため、筋力やバランス能力を維持することは、介護予防の観点から重要です。
世界保健機関は高齢者に対し、有酸素性身体活動や筋力強化活動に加えて、バランス能力を重視した多要素の身体活動を推奨しています。
ただし、介護が必要になる原因は、身体機能の低下だけではありません。
認知症、脳血管疾患、骨折、関節疾患など、さまざまな要因が関係します。
そのため、運動だけですべての介護リスクを防ぐことはできません。
それでも、身体機能を維持することは、自立した生活を長く続けるための重要な手段です。
健康寿命の延伸は社会保障政策の重要な目標になる
社会保障制度の持続可能性を考える際に重要なのが、健康寿命です。
健康寿命とは、健康上の問題によって日常生活が制限されることなく生活できる期間を指します。
平均寿命が延びても、日常生活に制約のある期間が長くなれば、本人や家族の負担は大きくなります。
そのため、平均寿命の延伸だけでなく、健康寿命を延ばすことが重要になります。
例えば、高齢者が自立した生活を長く続けられれば、買い物や家事、外出などを自分で行いやすくなります。
また、趣味や地域活動、就労などに参加する機会も広がります。
こうした生活の充実は、本人の幸福度にも関係します。
ただし、健康寿命が延びれば、医療費や介護費が必ず減少するというわけではありません。
長寿化によって医療サービスを利用する期間が変化することもあります。
また、医療技術の進歩やサービス利用の変化によって、費用が増加する場合もあります。
そのため、健康寿命の延伸を単純な財政支出削減策として捉えることは適切ではありません。
重要なのは、国民が健康で自立した生活を送れる期間を延ばすことです。
その結果として、医療や介護の需要に望ましい影響が生じる可能性があります。
予防政策の経済効果をどう評価するか
予防政策を進める際には、費用対効果を考えることが重要です。
例えば、自治体が高齢者向けの運動教室を開催する場合、会場費や講師への報酬、運営費などが発生します。
仮に年間500万円の費用をかけて、200人が参加する運動教室を実施した場合、参加者1人当たりの年間費用は2万5,000円となります。
この取り組みによって、参加者の筋力や歩行能力が改善すれば、健康面で一定の成果があったと評価できます。
さらに、転倒や骨折のリスクが軽減されれば、医療や介護の需要にも影響する可能性があります。
ただし、運動教室の費用と医療費削減額を単純に比較することはできません。
参加者の健康状態や年齢、生活環境などによって効果が異なるためです。
また、健康意識の高い人ほど運動教室に参加しやすい場合もあります。
そのため、参加者と非参加者の医療費を比較するだけでは、運動教室の効果を正確に判断できない可能性があります。
予防政策の評価では、身体機能の変化、生活の質、転倒の発生状況、医療や介護サービスの利用状況など、複数の指標を確認することが望まれます。
重要なのは、短期間の費用削減だけでなく、中長期的な健康改善を評価することです。
自治体の健康政策には地域格差への対応が必要になる
運動習慣を普及させるためには、自治体の役割も重要です。
地域によって、スポーツ施設の数や交通環境、人口構成には違いがあります。
都市部では、民間のスポーツクラブや公共の運動施設を利用しやすい地域があります。
一方、地方では施設までの距離が長く、自動車を利用しなければ通えない場合もあります。
また、高齢者が運転免許を返納した後、運動施設へ通うことが難しくなることも考えられます。
そのため、運動習慣の普及には、施設整備だけでなく、移動手段や開催場所への配慮が必要です。
例えば、公民館や地域の集会所で運動教室を開催する方法があります。
近隣の公園を活用したウォーキング活動も考えられます。
また、オンラインの運動プログラムを活用することも一つの方法です。
ただし、デジタル機器の利用が難しい人への支援も必要になります。
健康政策では、運動しやすい人だけが恩恵を受けるのではなく、身体活動の機会が少ない人にも届く仕組みが重要です。
地域格差を縮小することは、健康格差への対応にもつながります。
企業の健康経営が将来の社会保障負担に関係する
働く世代の健康管理では、企業の役割も重要です。
企業は従業員の健康維持を支援することで、欠勤や休職のリスクを軽減し、安定した事業運営につなげることが期待されます。
また、従業員が健康を維持できれば、長く働くことが可能になる場合があります。
就労期間が延びれば、勤労収入を得られる期間が長くなるだけでなく、社会保険料や税金の負担を通じて社会保障制度を支えることにもつながります。
ただし、健康経営によって社会保障財政がどの程度改善するかを、単純に推計することはできません。
健康状態と就労継続、所得、医療費などの関係には、さまざまな要因が影響するためです。
それでも、従業員が健康を維持して働ける環境を整えることは、企業と社会の双方にとって重要です。
スポーツ庁は2027年度から、従業員の運動習慣づくりに取り組む企業への支援を強化する方針です。
こうした政策は、スポーツ振興だけでなく、働く世代の健康維持という観点からも注目されます。
企業の健康経営を進める際には、運動プログラムの提供だけでなく、長時間労働の是正や休暇取得の促進なども必要です。
健康づくりに取り組める時間と環境を整えることが重要になります。
高齢者の体力向上は社会保障制度にとって明るい材料になる
スポーツ庁の2025年度調査では、60代から70代の男女の体力が長期的に向上していることが確認されました。
2001年度の体力合計点を100%とした場合、2025年度の60代男性は114.1%、女性は118.2%となっています。
70代でも男性109.8%、女性114.7%と改善しています。
この結果は、日本の超高齢社会にとって明るい材料です。
身体機能を維持できる高齢者が増えれば、自立した生活を送れる人が増える可能性があります。
また、60歳以降も働くことや、地域活動に参加することなど、社会参加の選択肢が広がります。
ただし、今回の調査は同じ人を25年間追跡したものではありません。
2001年度と2025年度に調査された同年代の集団を比較した結果です。
そのため、個人の体力が加齢とともに向上したという意味ではありません。
また、高齢者全体の体力が向上していても、健康状態には個人差があります。
身体機能が低下している人や、運動が難しい人への支援も必要です。
重要なのは、高齢者を一律に支援される側として捉えるのではなく、健康状態や本人の希望に応じて社会参加できる環境を整えることです。
運動不足を個人の責任だけにしてはいけない
予防政策を考える際に注意したいのが、健康管理を個人の責任だけにしてしまうことです。
運動習慣がない人に対して、単純に努力不足だと考えることは適切ではありません。
例えば、長時間労働が続く人は、運動する時間を確保することが難しい場合があります。
育児や介護を担う人も、自由に使える時間が限られます。
また、経済的な理由でスポーツクラブに通えない人もいます。
健康状態によっては、運動そのものに制約がある場合もあります。
そのため、予防政策では、本人の努力だけでなく、社会環境を整えることが重要です。
例えば、企業が勤務時間中に短時間の身体活動を取り入れる方法があります。
自治体が無料または低額の運動教室を開催することも考えられます。
また、歩道や公園など、安全に身体を動かせる環境を整備することも重要です。
健康づくりに取り組みやすい環境が整えば、これまで運動する機会が少なかった人も参加しやすくなります。
予防政策の目的は、運動していない人を責めることではありません。
誰もが健康を維持しやすい社会を実現することです。
人生100年時代の社会保障制度には予防と保障の両立が必要になる
人生100年時代では、長い高齢期をどのように支えるかが重要な課題になります。
医療保険や介護保険は、病気や介護が必要になったときに生活を支える重要な制度です。
一方、予防政策は、できるだけ健康な状態を維持し、自立した生活を送れる期間を延ばすことを目指します。
両者は対立するものではありません。
むしろ、予防と保障を組み合わせることが重要です。
例えば、運動習慣によって身体機能を維持できれば、介護が必要になる時期を遅らせられる可能性があります。
しかし、どれだけ健康管理に取り組んでいても、病気やけがによって医療や介護が必要になることはあります。
そのときには、公的な社会保障制度による支援が欠かせません。
予防政策を重視するあまり、医療や介護を必要とする人への保障を弱めることは適切ではありません。
重要なのは、健康を維持できる人を増やす取り組みと、支援が必要になった人を適切に支える制度を両立させることです。
また、健康寿命を延ばすことによって、働く期間や社会参加の機会が広がれば、本人の生活の充実にもつながります。
社会保障制度の持続可能性を考える際には、財政面だけでなく、国民の生活の質という観点も重視する必要があります。
結論
日本の社会保障制度は、少子高齢化と人口減少によって大きな課題に直面しています。
医療費や介護費の増加に対応するためには、制度財政の見直しだけでなく、国民の健康状態を維持する予防政策も重要になります。
スポーツ庁の2025年度調査では、60代から70代の男女の体力が長期的に向上している一方、30代から40代の働く世代では体力低下が確認されました。
この結果は、現役世代から健康づくりに取り組む必要性を考えるうえで重要です。
運動習慣は、生活習慣病の予防や身体機能の維持、介護予防などに役立つ可能性があります。
ただし、運動習慣があれば医療費や介護費が必ず減少するというわけではありません。
健康状態には多くの要因が関係しており、予防政策の効果を正確に評価することが必要です。
また、運動不足を個人の責任だけにすることも適切ではありません。
企業や自治体が、誰もが無理なく身体を動かせる環境を整えることが重要です。
人生100年時代の社会保障政策では、医療や介護が必要になった人を支える保障制度と、健康な生活を維持するための予防政策を両立させる必要があります。
健康寿命を延ばすことは、単なる社会保障費の削減策ではありません。
国民が長く自立した生活を送り、働くことや趣味、地域活動などを楽しめる社会を実現するための取り組みです。
これからの社会保障制度では、病気や介護が必要になってから支える仕組みだけでなく、健康を維持できる環境を社会全体で整えることが、ますます重要になるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月12日朝刊 進むスポーツクラブ離れ、休みは運動よりスマホ 働く世代の女性顕著
スポーツ庁 2025年度体力・運動能力調査
厚生労働省 2024年 健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023
厚生労働省 2024年 健康日本21第三次
世界保健機関 2020年 身体活動及び座位行動に関するガイドライン
厚生労働省 介護予防に関する施策資料