日本企業の取締役会が変わり始めています。
これまで取締役というと、営業や製造などの事業部門で実績を積み、社内で昇進してきた人が就任するケースが一般的でした。
しかし最近では、株式市場や資本効率、財務戦略などに詳しい人材を取締役に登用する企業が増えています。
日本総合研究所の調査によると、日本の主要100社でファイナンスのスキルを持つ取締役と監査役の割合は2026年に43%となりました。
調査が始まった2019年と比べると大幅に増えています。
なぜ日本企業は、財務に詳しい役員を増やしているのでしょうか。
取締役会に求められる役割が変わっている
日本企業でファイナンス人材が増えている背景には、取締役会に求められる役割の変化があります。
かつて日本企業では、売上や利益を増やすことが経営の中心的な課題でした。
もちろん現在でも売上や利益は重要です。
しかし上場企業の場合、それだけでは十分ではなくなっています。
会社が持っている資金や資産をどの事業に投入するのか。
利益を設備投資や企業買収に使うのか、それとも配当や自社株買いによって株主に還元するのか。
収益性の低い事業を維持するのか、売却するのか。
こうした資本配分についての判断が、以前より強く求められるようになりました。
そのため取締役にも、単に事業を運営した経験だけではなく、財務や資本市場についての知識が必要になっているのです。
資本コストを意識した経営が求められている
大きな転機となったのが、東京証券取引所による資本コストや株価を意識した経営への要請です。
企業は利益を出していれば、それだけで企業価値が高まるわけではありません。
株主から集めた資金にもコストがあります。
銀行から借りたお金には金利が発生しますが、株主から提供された資本にも期待される収益率があります。
これが資本コストという考え方です。
たとえば100億円の資金を使って事業をしていても、その事業から十分な利益を生み出せなければ、資本を効率的に使っているとはいえません。
そこで企業には、資本コストを上回る収益を生み出せる事業へ経営資源を振り向けることが求められます。
この判断には、会計だけでなく企業価値評価や株式市場、資本政策などについての知識が必要です。
ファイナンスに詳しい取締役が必要になる理由の一つです。
事業の選択と集中にも財務知識が必要になる
ファイナンス人材の重要性が高まっているもう一つの理由が、事業ポートフォリオ改革です。
多くの大企業は複数の事業を抱えています。
その中には高い成長が期待できる事業もあれば、利益率が低下している事業もあります。
問題は、どの事業に資金を投入し、どの事業から撤退するかです。
長年続けてきた事業だから残すという判断だけでは、限られた経営資源を有効に使えない可能性があります。
そこで重要になるのが、投下した資本に対してどれだけ利益を生み出しているのかという視点です。
事業ごとの収益性や成長性、資本コストなどを比較しながら、資金や人材をどこへ振り向けるかを判断します。
ファイナンスに詳しい取締役には、こうした経営資源の配分が合理的に行われているかを監督する役割も期待されています。
スキルマトリックスによって取締役の能力が見えるようになった
取締役の専門性が注目されるようになった背景には、スキルマトリックスの普及もあります。
スキルマトリックスとは、それぞれの取締役がどのような経験や専門知識を持っているのかを一覧にしたものです。
たとえば、
企業経営
財務会計
法務
人事
国際事業
デジタル
リスク管理
などの項目について、それぞれの取締役がどの分野に強みを持っているのかを示します。
2021年のコーポレートガバナンスコード改訂を契機として、こうした情報を開示する企業が増えました。
これによって投資家も、取締役会にどのような人材がそろっているのかを確認しやすくなりました。
取締役会に財務の専門家がほとんどいなければ、そのこと自体が投資家から問題視される可能性があります。
人材構成が市場から評価される時代になったのです。
日本企業は米英企業よりまだ少ない
日本企業でファイナンス人材が増えているとはいえ、海外企業と比較するとまだ差があります。
日本の主要企業では、ファイナンスのスキルを持つ取締役や監査役の割合は43%です。
一方、米国や英国では、経営戦略やファイナンスのスキルを持つ取締役が6割から8割程度を占めています。
リスク管理やガバナンスについても、米英企業の方が専門知識を持つ取締役の割合が高くなっています。
この違いには、企業統治の歴史も関係しています。
米英企業では以前から、社外取締役を中心として経営陣を監督する考え方が発達してきました。
そのため取締役会には、社内での出世経験よりも、経営監督に必要な専門性や経験を持った人材を配置するという考え方が比較的強くあります。
日本でもこうした方向へ変化していますが、まだ移行途中といえます。
財務の専門家を入れるだけでは企業価値は上がらない
ただし、ファイナンスに詳しい取締役を増やせば自動的に企業価値が高まるわけではありません。
ここは非常に重要です。
スキルマトリックスの財務欄に丸を付けられる人を増やすこと自体が目的になってしまえば、本来の企業統治改革とは離れてしまいます。
重要なのは、その専門知識が実際の取締役会で使われることです。
たとえば収益性の低い事業について、なぜこの事業を保有し続けるのか。
大型の企業買収について、本当に買収価格は妥当なのか。
大量の現預金について、なぜ会社の中に置いておく必要があるのか。
株主還元と成長投資のバランスは適切なのか。
こうした問題について経営陣に質問し、必要であれば異なる意見を述べることが取締役には求められます。
専門知識を持っていることと、その専門知識を使って経営を監督できることは別の問題なのです。
取締役会は経営者の集まりから専門家チームへ変わる
今回の動きで注目したいのは、日本企業の取締役会そのものが変化していることです。
従来は、社内で実績を上げた経営者が取締役になるという色彩が強くありました。
これからは違います。
経営戦略に詳しい人。
ファイナンスに詳しい人。
海外事業に詳しい人。
デジタルに詳しい人。
人材戦略に詳しい人。
リスク管理に詳しい人。
それぞれ異なる専門性を持つ人材を組み合わせ、取締役会全体として経営を監督する方向へ進んでいます。
つまり重要なのは、一人の万能な経営者を探すことではありません。
会社の経営課題に合わせて、取締役会全体として必要な能力をそろえることです。
スキルマトリックスは、そのための設計図ともいえます。
結論
日本企業で財務に詳しい役員が増えている背景には、企業経営そのものが変化していることがあります。
売上や利益を増やすだけではなく、資本コストを意識しながら、限られた資金をどの事業へ投入するのかを考えることが求められるようになりました。
そのため、株式市場や企業価値、資本政策などに詳しいファイナンス人材の重要性が高まっています。
日本の主要企業では、ファイナンスのスキルを持つ取締役と監査役の割合が2026年に43%まで上昇しました。
ただし、米英企業と比較するとまだ低い水準です。
さらに重要なのは、専門家を取締役に加えること自体ではありません。
その専門知識を実際の議論や意思決定に生かし、経営陣を適切に監督できるかどうかです。
日本企業の取締役会改革は、人数や肩書きを変える段階から、取締役会の中でどのような議論をするのかという質を問う段階へ進みつつあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月30日 朝刊 財務精通の役員4割超 主要企業、7年で倍