中小企業では、経理担当者が一人しかいないことも珍しくありません。
給与計算をして、振込データを作り、銀行への振込を実行し、最後に会計ソフトへ記録するところまで同じ人が担当する会社もあります。
一人で処理した方が効率的に見えます。
しかし、ここには大きなリスクがあります。
間違いや不正があっても、途中で別の人が気づく機会がないからです。
そこで重要になるのが職務分掌という考え方です。
職務分掌とは何か
職務分掌とは、一つの業務に関係する仕事や権限を複数の人に分けることです。
経理では特に、
取引を承認する
取引を実行する
会計帳簿に記録する
資産を管理する
といった役割を一人に集中させないことが重要です。
例えば100万円を取引先へ振り込む場合を考えてみます。
一人の経理担当者が請求書を確認し、振込データを作り、銀行で振込を承認し、会計ソフトにも入力できるとします。
この場合、担当者が架空の取引先を作ったとしても、自分で振込を行い、自分で帳簿上のつじつまを合わせられる可能性があります。
職務分掌は、このような状態を防ぐための仕組みです。
承認と実行と記録を分ける
職務分掌を理解するうえで重要なのが、承認と実行と記録を分けるという考え方です。
例えば給与振込なら、経理担当者が給与を計算し、経営者が給与一覧を確認して承認し、銀行振込についても別の権限で最終承認する仕組みが考えられます。
さらに振込後、給与台帳と銀行口座から実際に支払われた金額が一致しているか確認します。
ここまで行えば、一人の担当者だけで不正を完結させることが難しくなります。
ポイントは単なるダブルチェックではありません。
不正をしようと思っても、自分一人では最後まで実行できない仕組みにすることです。
なぜ一人で完結すると不正が起きやすいのか
参考記事では、大阪市の人材派遣会社で、唯一の経理担当者だった男性社員が約11年間にわたり自分の給与を水増ししていた事例が紹介されています。
水増し総額は5108万円に上りました。
男性は全従業員の給与合計額を記載した振込依頼書を作成し、社長の決裁を受けた後、自分の給与を水増しした依頼書を銀行へ送っていました。
注目したいのは、会社に決裁の仕組みがなかったわけではないことです。
社長は決裁していました。
それでも不正を防げませんでした。
なぜでしょうか。
承認された内容と、実際に銀行へ送られた内容が一致しているか確認する仕組みが十分ではなかったからです。
つまり、決裁という手続きが存在するだけでは不十分なのです。
社長が印鑑を押せば内部統制になるわけではない
中小企業では、
社長が確認しているから大丈夫
と考えることがあります。
しかし、社長が何を確認しているかが重要です。
例えば社員20人の給与総額が600万円だったとします。
社長が、
今月の給与総額は600万円です
という資料だけを見て承認しても、個々の社員にいくら支払われるのかまでは分かりません。
さらに、承認後に振込データを変更できれば、承認そのものが意味を失ってしまいます。
そこで、社長が確認した給与一覧と実際の振込データを一致させる仕組みが必要になります。
給与計算ではどのように分けるのか
例えば小さな会社であれば、次のような方法があります。
経理担当者が給与を計算します。
経営者が従業員別の給与一覧を確認します。
経理担当者がインターネットバンキングに振込データを登録します。
経営者が自分のIDで振込を承認します。
振込後に銀行の振込結果を確認します。
この方法なら、経理担当者が給与データを作成することはできても、自分だけで銀行振込まで完了することはできません。
特に重要なのが、振込データの作成権限と承認権限を分けることです。
中小企業では完全な職務分掌が難しい
大企業であれば、経理部門に何十人もの社員を配置できます。
給与担当、支払担当、会計担当、資金担当などに分けることもできます。
一方、社員10人や20人の会社では現実的ではありません。
経理担当者が一人しかいない会社もあります。
だからといって職務分掌を諦める必要はありません。
経理担当者以外の社員を増やすのではなく、経営者を統制の中に組み込めばよいからです。
例えば経理担当者が振込データを作成し、社長が承認するだけでも、一人で完結する状態からは大きく変わります。
経営者は総額ではなく個別金額を見る
給与不正を防ぐためには、経営者が給与総額だけを見るのでは十分ではありません。
従業員別の金額を見ることが重要です。
例えば、
先月30万円だった社員が今月80万円になっている
特定の社員だけ手当が急増している
残業時間と残業代が合っていない
賞与対象ではない社員に賞与が支払われている
といった異常を確認します。
さらに前月比較を行えば、異常値は見つけやすくなります。
毎月すべての計算をやり直す必要はありません。
変化の大きな数字に注目するだけでもチェックの効果は高まります。
経理担当者を信用することとチェックすることは矛盾しない
長年働いている経理担当者に対して、
信用している社員を疑うようで申し訳ない
と考える経営者もいるかもしれません。
しかし職務分掌は、特定の社員を疑う制度ではありません。
誰が担当しても同じチェックが働く仕組みです。
むしろ一人の社員に給与計算から銀行振込まで任せることは、その社員に大きすぎる責任を負わせることでもあります。
問題が起きれば、その担当者に疑いが集中します。
複数人による確認記録が残っていれば、経理担当者自身を守ることにもなります。
人ではなく仕組みで防ぐ
不正対策では、
信用できる人を経理担当者にする
という発想だけでは限界があります。
人は退職します。
担当者も交代します。
会社が成長すれば扱う金額も増えます。
必要なのは、誰が担当しても一人では不正を完結できない仕組みです。
給与計算ソフトやインターネットバンキングを導入する場合も同じです。
システムを入れるだけではなく、入力できる人と承認できる人を分けることが重要です。
デジタル化が進むほど、印鑑の管理以上にIDやアクセス権限の管理が重要になります。
結論
職務分掌とは、一つの取引について承認、実行、記録などの仕事を複数の人に分ける仕組みです。
目的は、仕事を非効率にすることではありません。
一人の担当者だけで間違いや不正を完結できないようにすることです。
中小企業では、経理担当者を何人も配置することは難しいでしょう。
それでも、
経理担当者が給与を計算する
経営者が従業員別の給与額を確認する
経理担当者が振込データを作る
経営者が銀行振込を最終承認する
という分担は可能です。
5000万円を超える給与水増しが約11年間続いた事例から分かるのは、不正防止で重要なのは担当者を信用するか疑うかではないということです。
誰が担当しても、一人では取引を完結できないようにする。
それが中小企業でもできる職務分掌の基本です。
参考
日本経済新聞 2026年9月3日朝刊 中小企業リーガル処方箋 給料水増し5000万円 「お一人様」経理、振込依頼操作