企業の監査で重大な問題が発生すれば、監査法人には厳しい責任を求める必要があります。
一方で、監査法人が市場から次々と退出し、大企業を監査できる法人が少なくなり過ぎることにも問題があります。
かつて世界の大手会計事務所はビッグ5と呼ばれていました。
しかし、エンロン事件をきっかけにアーサー・アンダーセンが監査市場から事実上姿を消し、現在はPwC、デロイト、EY、KPMGのビッグ4が中心になっています。
それでは、さらに1社が大幅に縮小したらどうなるのでしょうか。
単純に4社が3社になるだけではありません。
大企業の監査を引き受けられる監査法人そのものが不足する可能性があります。
なぜ大企業の監査はビッグ4に集中するのか
大企業の監査には大量の人員が必要です。
売上高が数兆円に達する企業であれば、事業部門や子会社も多数存在します。
金融、IT、税務、不動産、企業価値評価など専門的な知識が必要になることもあります。
さらに世界各国に子会社を持つ企業であれば、海外拠点についても監査を行わなければなりません。
日本の監査法人だけで完結する仕事ではありません。
各国の監査人と連携してグループ全体の財務諸表を監査する必要があります。
こうした巨大な監査を安定して行うには、人員、専門家、ITシステム、海外ネットワークなど大規模なインフラが必要になります。
そのため世界的な大企業の監査を担える会計事務所は限られています。
4社あれば十分とは限らない
ビッグ4という言葉だけを見ると、企業には4つの選択肢があるように感じます。
しかし実際には、必ず4社から自由に選べるわけではありません。
その理由の1つが監査人の独立性です。
監査法人は監査先企業から独立した立場でなければなりません。
例えば、ある会計事務所のグループが企業に特定の非監査業務を提供している場合、その内容によっては監査を引き受けることが難しくなることがあります。
企業グループが巨大になればなるほど、世界各国でさまざまなサービスを利用しています。
そのため監査法人を変更しようとしても、候補となる事務所との間に独立性上の問題がないかを世界規模で確認する必要があります。
4社存在していても、実際に監査を引き受けられる法人はそれより少ない場合があるのです。
監査法人の交代には大きな負担がかかる
監査法人は簡単に交換できるサービス業者ではありません。
新しい監査法人は、企業の事業内容を一から理解する必要があります。
会計システム。
内部統制。
主要な取引。
海外子会社。
重要な会計上の見積もり。
過去から継続している複雑な取引。
こうした情報を把握しなければ適切な監査はできません。
特に巨大企業では、監査法人の交代に多大な時間と労力が必要になります。
監査法人側も、突然巨大企業の監査を引き受けられるとは限りません。
必要な人員を確保し、専門家を配置し、海外のメンバーファームとも調整する必要があります。
競争が弱くなる可能性がある
監査法人の数が減れば、競争にも影響します。
一般的な市場では、供給者が多いほど顧客は価格や品質を比較しやすくなります。
監査市場でも基本的な考え方は同じです。
大企業を監査できる法人が少なくなれば、企業側の選択肢が狭くなります。
監査報酬について競争が働きにくくなる可能性もあります。
一方、監査報酬が安ければよいわけでもありません。
十分な監査時間や人員を確保するには、それに見合った報酬が必要です。
したがって監査市場では、単純な価格競争ではなく、適正な報酬の下で品質を競う環境を維持することが重要になります。
監査法人への依存度が高まる
監査法人が少なくなると、企業側の監査法人への依存も強くなる可能性があります。
例えば企業が現在の監査法人との関係に問題を感じたとしても、変更先がなければ簡単には交代できません。
これは監査法人側から見ても望ましい状態とは限りません。
本来、監査法人は企業から独立した立場で厳しい指摘を行う必要があります。
しかし市場全体が少数の巨大監査法人に依存すると、1社の問題が多くの上場企業に波及する構造になります。
つまりビッグ4への集中は、個々の企業の問題ではなく資本市場のインフラに関する問題なのです。
監査法人が突然退出すると何が起きるのか
仮に大手監査法人の1社が突然、大企業監査から大幅に撤退したとします。
その監査法人を利用していた企業は、新しい監査人を探さなければなりません。
しかし残る大手監査法人にも既存の顧客があります。
人員にも限界があります。
さらに独立性の問題によって引き受けられない企業もあります。
多数の大企業が同時に監査法人を変更しようとすれば、監査を受ける側だけでなく、引き受ける側にも大きな負担が発生します。
監査法人1社の経営問題が、多数の企業の決算や情報開示に影響する可能性があるわけです。
なぜ新しい巨大監査法人が簡単に生まれないのか
それならビッグ4以外の監査法人を成長させればよいと思うかもしれません。
方向性としては重要です。
しかし、巨大な国際監査ネットワークを短期間で作ることは容易ではありません。
公認会計士を大量に採用するだけでは足りません。
世界各国に監査拠点が必要です。
複雑な業種に対応する専門家も必要です。
世界共通の監査手法や品質管理制度も整備しなければなりません。
さらに巨大企業から監査を任せてもらうには、長期間かけて信用を築く必要があります。
監査法人は設備投資だけで急成長できる事業ではありません。
人材、経験、ネットワーク、信用を積み重ねる必要があります。
厳しい責任追及との難しいバランス
監査法人への責任追及と市場の安定には、難しい関係があります。
監査上の重大な問題があれば、当然責任を問う必要があります。
巨額の粉飾を見逃してもほとんど責任を負わないのであれば、監査制度への信頼が低下します。
一方で、1件の訴訟によって巨大監査法人が市場から消滅すれば、大企業の監査を担う主体がさらに少なくなります。
監査法人を厳しく規律すること。
損害を受けた関係者を救済すること。
監査市場そのものを維持すること。
この3つを同時に考える必要があります。
恒大問題が監査市場全体に関係する理由
中国恒大をめぐっては、PwC関係3社に最大約580億元、日本円で約1兆3,000億円規模の損害賠償が請求されています。
現時点で、その金額の賠償責任が確定したわけではありません。
しかし、この訴訟が注目される理由は請求金額だけではありません。
PwCの国際ネットワークを束ねる中核組織の責任まで争われているからです。
もし国際ネットワーク全体の法的リスクが大きくなる方向へ進めば、ビッグ4各社は組織構造や品質管理、リスク管理を見直す必要が出てくる可能性があります。
これはPwCだけの問題ではなく、ビッグ4を中心に成り立っている現在の監査市場全体に関係します。
ビッグ4は大き過ぎても困り少な過ぎても困る
監査市場には少し矛盾した問題があります。
ビッグ4への集中度が高過ぎれば、競争や選択肢の少なさが問題になります。
しかし巨大監査法人を分割したり、市場から退出させたりすれば、大企業の監査を担える主体がさらに不足する可能性があります。
巨大過ぎても問題。
少な過ぎても問題。
これが現在の監査市場が抱えている構造的な難しさです。
監査法人の不祥事を個別の企業問題として考えるだけでは、この問題は見えてきません。
資本市場を支えるインフラとして監査市場全体を見る必要があります。
結論
世界の大企業の監査がビッグ4に集中しているのは、単にブランド力が強いからではありません。
巨大企業を監査するためには、大量の人材、専門家、ITシステム、海外ネットワーク、品質管理体制などが必要だからです。
そのためビッグ4の1社が市場から退出した場合、単純に4社が3社になるだけでは済まない可能性があります。
独立性などの制約によって、企業が実際に選択できる監査法人はさらに少なくなることがあります。
一方、監査法人に重大な問題があれば厳しく責任を問う必要があります。
監査法人を守るために責任を曖昧にしてよいわけではありません。
重要なのは、監査法人への適切な規律を維持しながら、大企業を監査できる主体をどのように確保するかです。
アーサー・アンダーセンの消滅によってビッグ5はビッグ4になりました。
中国恒大問題は、現在のビッグ4体制が巨大な訴訟や信用危機に直面した場合でも持続できるのかという、さらに大きな問題を浮かび上がらせています。
次回は、大企業がなぜ簡単に監査法人を変更できないのかを、監査法人の人員、海外ネットワーク、専門性などから詳しく取り上げます。
参考
日本経済新聞 2026年9月29日朝刊 恒大不正、逃げられぬPwC