企業の法務部門には、かつて「事業部門にブレーキをかける部署」というイメージがありました。
新しい事業や取引について相談すると、法律上の問題点を指摘し、「それはできません」と回答する。企業を法的リスクから守る以上、こうした役割は当然必要です。
しかし、企業を取り巻く環境が急速に変化するなかで、それだけでは十分ではなくなっています。
地政学リスク、経済安全保障、各国の制裁、独占禁止法、贈収賄、個人情報、ESG、生成AIなど、経営判断に関係する法務課題は複雑になっています。
法律上のリスクを完全になくしてから事業を始めようとすれば、意思決定が遅れ、競争相手に先を越される可能性もあります。
これからの企業法務に求められるのは、「できない理由」を示すことではなく、「どうすればできるのか」を事業部門と一緒に考えることなのです。
従来の企業法務は企業を守ることが中心だった
企業法務の基本的な役割は、企業を法的リスクから守ることです。
契約書を審査する。
法律や規制に違反していないか確認する。
紛争が発生すれば対応する。
不祥事が起きれば事実関係を調査する。
こうした仕事は現在でも重要です。
特に企業活動がグローバル化するにつれて、1つの法的判断の誤りが企業経営に与える影響は大きくなっています。
独占禁止法違反や贈収賄、経済制裁への違反などでは、多額の制裁金だけでなく、企業の信用そのものを失う可能性があります。
企業法務が「守り」を担う重要性は、むしろ高まっているといえるでしょう。
しかし問題は、「守ること」だけを目的にすると企業活動そのものを止めてしまう可能性があることです。
リスクをゼロにすることはできない
企業活動には必ずリスクがあります。
新しい市場へ進出すれば規制リスクがあります。
新商品を発売すれば消費者とのトラブルが起こる可能性があります。
企業買収をすれば契約や競争法の問題が生じるかもしれません。
生成AIを利用すれば著作権や個人情報、営業秘密などの問題を考える必要があります。
それでは、リスクがある事業はすべてやめるべきでしょうか。
もちろん、そうではありません。
企業は一定のリスクを取りながら事業を行い、利益を生み出す存在だからです。
重要なのはリスクをゼロにすることではなく、リスクを把握したうえで、どこまでなら受け入れられるのかを判断することです。
その判断を経営者だけに任せるのではなく、法務部門も一緒に考える。
ここに現代の企業法務の重要な役割があります。
「できません」で終わらせない
事業部門から新しい取り組みについて相談されたとします。
従来型の法務であれば、
「この方法には法的リスクがあります」
という回答で終わる場合もあったでしょう。
しかし、それでは事業部門は困ります。
そこで求められるのが、
「この方法では難しいですが、この条件を変更すれば実現できます」
という提案です。
例えば契約条件を変更する。
事業の対象地域を限定する。
利用者への説明方法を変える。
社内の承認手続きを追加する。
まず小規模に実施して問題がないか確認する。
こうした方法によってリスクを管理しながら事業を実現できる場合があります。
法務部門の仕事は、赤信号を示すことだけではありません。
安全に進める別の道を探すことでもあるのです。
「ノーと言わない法務」とは何でも認めることではない
ここで注意したいのは、「事業を実現する法務」とは事業部門の希望を何でも認める法務ではないということです。
重大な法令違反につながる行為であれば、明確に止めなければなりません。
企業の信用を大きく傷つける可能性があれば、経営陣に強く警告する必要があります。
むしろ経営に近づけば近づくほど、必要なときに「ノー」と言えることが重要になります。
大切なのは、単に法律上の問題を指摘して終わるのではなく、
何が問題なのか。
どの程度のリスクなのか。
どのような条件なら実行できるのか。
実行した場合と実行しなかった場合で何が起こるのか。
こうした情報を整理して経営判断につなげることです。
最終的な判断をするのは経営者であっても、その判断材料を提供するのが法務の重要な仕事になります。
「リスクを取らないリスク」も考える
企業法務にとって難しいのが、リスクを避けること自体が新たなリスクになる場合です。
例えば新しいデジタルサービスへの参入を検討している企業があるとします。
法律や規制が十分に整備されていないため、一定の不確実性があります。
そこで法務部門が、
「制度が明確になるまで待ちましょう」
と提案したとします。
法的リスクだけを考えれば合理的かもしれません。
しかし、その間に競争相手が市場を開拓すればどうでしょうか。
制度が整った頃には、すでに大きな差がついている可能性があります。
つまり、
「事業を始めるリスク」
だけでなく、
「事業を始めないリスク」
も存在するのです。
これからの企業法務には、この両方を考える視点が必要になります。
完璧な答えを待たない経営が増えている
新しい技術やビジネスモデルでは、最初から明確な法律上の答えが存在しないことがあります。
生成AIはその典型でしょう。
技術の進歩が速く、法律やガイドラインが後から整備されることも珍しくありません。
こうした分野で、すべての問題が解決するまで事業を始めないという判断を続ければ、企業は動けなくなります。
そこで重要になるのが、段階的にリスクを取る考え方です。
まず限定された範囲で利用する。
問題がないか検証する。
必要な管理体制を整える。
その後に対象を拡大する。
最初から100か0かで判断するのではなく、小さく始めながら修正する方法です。
法務部門にも、こうした柔軟なリスク管理が求められています。
法務が早い段階から参加する意味
企業法務の役割が変化すると、事業への関わり方も変わります。
事業部門が計画をほぼ完成させた後で、
「最後に法務チェックをお願いします」
という形では十分ではありません。
計画の最後に重大な法的問題が見つかれば、それまでの準備をやり直すことになります。
そのため、重要な案件では企画や意思決定の早い段階から法務担当者が参加する企業が増えています。
初期段階から参加すれば、問題が大きくなる前に修正できます。
同時に、法務担当者も事業の目的や背景を理解できます。
なぜこの事業をするのか。
どこで利益を生み出すのか。
経営者は何を重視しているのか。
こうした情報を理解して初めて、事業に役立つ法務判断ができるようになります。
法律の知識だけでは足りなくなる
ここまで企業法務の役割が広がると、法務担当者に求められる能力も変わります。
法律に詳しいだけでは十分ではありません。
事業を理解する力。
財務を理解する力。
経営者と対話する力。
他部門を巻き込む力。
複数のリスクを比較する力。
そして不確実な状況でも自分なりの判断を示す力が必要になります。
法務担当者が経営に近づくということは、単に法務部門の社内での地位が上がるという話ではありません。
法務担当者自身が経営を理解しなければならないということでもあります。
生成AIによって「作業する法務」は減っていく
さらに生成AIの普及によって、企業法務の仕事は大きく変わる可能性があります。
契約書のひな型を作る。
契約条項を比較する。
過去の資料を検索する。
法律上の論点を整理する。
こうした仕事の一部はAIによって効率化されていくでしょう。
その結果、人間の法務担当者には、より高度な仕事が残ります。
AIが整理した情報をどう評価するのか。
どのリスクを経営陣に伝えるのか。
どこまでリスクを取るべきなのか。
事業部門とどう調整するのか。
最終的な判断にどう責任を持つのか。
つまり、企業法務は「作業する機能」から「判断する機能」へさらに移っていく可能性があります。
結論
企業法務の役割は、「会社を守ること」から「会社を守りながら事業を実現すること」へ広がっています。
法令違反を防ぐことは今後も重要です。
しかし、リスクを完全になくすことだけを目標にすれば、企業の成長機会まで失いかねません。
これからの法務部門には、事業の目的を理解し、リスクを整理し、「どうすれば実現できるのか」を経営や事業部門と一緒に考える姿勢が求められます。
そして生成AIが契約審査やリサーチなどを担うようになれば、この変化はさらに進むでしょう。
法律を知っているだけではなく、法律を使って経営判断を支える。
そこにAI時代の企業法務の価値があるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「企業の法務機能は進化できるか 役割や育成、法務トップ経験者に聞く」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「『違和感は口に出して』経営判断支える 三菱商事・野島嘉之氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AIの時代、価値判断に責任 弁護士、元米グーグル日本法人・野口祐子氏」
日本経済新聞 2026年10月5日朝刊 「AI前提の再設計が課題に」