日本経済の生産性がなかなか向上しない背景には、法律や行政規制だけでは説明できない構造的な問題があります。
それが、企業同士の取引慣行や企業内部の人事制度など、民間企業が自ら作り出してきた「民民規制」です。
代表的なものが、IT業界の多重下請け構造と大企業の役職定年制度です。
いずれも高度経済成長期やバブル崩壊後の日本企業を支えてきた仕組みですが、人手不足やデジタル化が進む現在では、むしろ企業の成長を妨げる要因になっています。
日本の労働生産性は2024年、経済協力開発機構に加盟する38カ国中28位となり、主要7カ国では最下位でした。
なぜ日本企業は、かつての成功モデルから抜け出せないのでしょうか。
今回は、民民規制が日本経済に与える影響と、企業が取り組むべき改革について考えます。
民民規制とは何か
民民規制とは、法律による強制ではなく、企業間の取引慣行や社内制度、不文律などによって、企業や従業員の行動が事実上制約される仕組みです。
例えば、次のような慣行が該当します。
- 多重下請けによる取引階層の固定化
- 一定年齢で管理職から外す役職定年
- 年齢や勤続年数を重視した賃金制度
- 取引先との長期的な関係を優先する商慣行
- 過剰な社内承認や複雑な決裁手続き
これらは必ずしも法律違反ではありません。
むしろ、企業経営を安定させ、雇用を維持するために合理的と考えられてきた制度です。
しかし、経済環境が変われば、かつて合理的だった仕組みが非効率な制度へと変化することがあります。
重要なのは、制度が存在する理由ではなく、現在もその制度が企業価値の向上に貢献しているかどうかです。
IT業界の多重下請けが生産性を低下させる
日本のITシステム業界では、元請け企業を頂点とする多重下請け構造が広く定着しています。
発注企業から仕事を受けた元請け企業が2次下請けに委託し、さらに3次、4次へと業務が再委託される仕組みです。
場合によっては6次下請けまで存在します。
問題は、技術者の能力と報酬が必ずしも一致していないことです。
例えば、4次下請け企業に所属する技術者が高度なシステム設計を担当していても、所属企業が下層に位置するため、十分な報酬を得られないケースがあります。
各階層で管理費や利益が差し引かれるため、実際に付加価値を生み出す技術者への配分が小さくなりやすいのです。
もちろん、多重下請けそのものが常に非効率というわけではありません。
専門企業への業務分担や繁忙期の人員確保など、合理的な役割もあります。
しかし、階層が増えることで情報伝達が複雑になり、責任の所在が不明確になれば、全体の生産性は低下します。
本来評価されるべきなのは、所属企業の取引階層ではなく、技術者が生み出した付加価値です。
日本と米国で広がるデジタル産業の格差
日本のIT業界は、企業のシステム開発を外部企業が請け負う労働集約型モデルを中心に発展してきました。
一方、米国ではソフトウエアやクラウドサービスなど、開発した技術を多数の顧客に提供する事業モデルが成長しました。
この違いは、生産性にも表れています。
日本のデジタル産業の労働生産性指数は2010年代半ばから低下傾向が続き、2000年の水準を下回っています。
これに対し、米国では同指数が2000年比で約4倍となっています。
背景には、単に技術力の差だけでなく、収益構造の違いがあります。
受託開発では、売上高を増やすために技術者の人数や稼働時間を増やす必要が生じやすくなります。
一方、ソフトウエアを自社製品として提供する場合、顧客が増えても開発費用が同じ割合で増えるとは限りません。
こうした事業モデルの違いが、長期的な生産性格差につながります。
日本企業に求められるのは、単なる人件費削減ではなく、技術者1人当たりの付加価値を高める経営への転換です。
役職定年がシニア人材の能力を埋もれさせる
もう一つの代表的な民民規制が役職定年制度です。
一定年齢に達した社員を管理職から外す仕組みで、大企業の約4割が運用しています。
この制度は、定年延長によって増加したシニア社員の雇用を維持しながら、若手社員の昇進機会を確保する目的で広がりました。
しかし、少子高齢化によって労働力人口が減少する現在では、制度の合理性が問われています。
例えば、55歳で役職定年を迎えた管理職が、それまでと同じ専門知識や経験を持っているにもかかわらず、役職と報酬を引き下げられるケースがあります。
能力が急激に低下したわけではありません。
それでも、年齢という一律の基準によって処遇が変更されるのです。
企業にとっては人件費を抑制できる一方、社員の働く意欲や能力開発への意欲を低下させる可能性があります。
特に、60歳以降も働くことが一般的になりつつある現在、50代半ばでキャリアの成長機会を狭める制度には再検討の余地があります。
年齢ではなく職務と成果で評価する時代
役職定年の問題は、単にシニア社員の給与を維持すべきかという議論ではありません。
本質は、報酬を何によって決定するかという問題です。
年齢や勤続年数を基準にするのか、それとも職務内容、責任、専門性、成果によって決めるのかという違いです。
職務に基づいて報酬を決定するジョブ型雇用では、同じ職務を担当し、同等の成果を上げている社員について、年齢だけを理由に処遇を変更する合理性は乏しくなります。
もちろん、管理職ポストには限りがあるため、組織の新陳代謝は必要です。
しかし、管理職から外れることと、専門能力の評価を引き下げることは別の問題です。
管理職としての役割を終えた社員が、専門職として高い報酬を得ながら活躍する制度も考えられます。
企業が評価すべきなのは、過去の役職でも年齢でもなく、現在と将来に生み出す付加価値です。
役職定年人材を活用する企業の成長戦略
役職定年制度が広がる一方、その制度によって活躍の場を失った人材を積極的に採用する企業も現れています。
機械向けセンサーを製造するメトロールは、大手企業で役職定年を迎えた技術者の採用に力を入れています。
大企業で長年培った専門技術や開発経験を持つ人材を受け入れ、製品開発の第一線で活用しています。
これは、採用する企業にとって合理的な戦略です。
新卒採用が難しい中小企業でも、経験豊富な技術者を確保することで研究開発力を高められるからです。
一方、転職する技術者にとっても、年齢に関係なく能力を評価される職場で働けることは大きな魅力になります。
ただし、こうした人材流動化が進めば、従来の大企業は優秀なシニア社員を失う可能性があります。
役職定年によって人件費を削減できたとしても、貴重な技術やノウハウが社外へ流出すれば、企業全体の競争力が低下することも考えられます。
人件費の削減効果だけでなく、人材流出による機会損失も含めて評価する必要があります。
民民規制は企業の財務にも影響する
民民規制の問題は、人事制度や働き方だけにとどまりません。
企業の収益性や財務構造にも影響します。
例えば、多重下請け構造では、元請け企業が取引全体を管理する一方、実務を担当する企業の利益率が低く抑えられる場合があります。
下請け企業の利益率が低ければ、設備投資や研究開発、人材育成に十分な資金を回せません。
その結果、技術力が向上せず、低価格の受託業務に依存するという悪循環が生まれます。
役職定年についても同様です。
短期的には人件費の削減につながりますが、優秀な人材の離職や意欲低下によって、中長期的な収益力を損なう可能性があります。
財務分析では、人件費率や外注費率を確認するだけでは不十分です。
重要なのは、それらの費用がどれだけの付加価値を生み出しているかという視点です。
企業が持続的に成長するためには、費用削減だけでなく、人的資本への投資と収益性の向上を一体として考える必要があります。
AI時代には従来の成功モデルが通用しなくなる
生成AIの普及は、民民規制の見直しをさらに加速させる可能性があります。
IT業界では、プログラミングやテスト、資料作成などの一部業務をAIが支援するようになっています。
これまで人員数と作業時間を基準に収益を確保してきた企業は、事業モデルの転換を迫られます。
AIによって作業時間が短縮されれば、従来と同じ人数や稼働時間を前提とする料金体系が維持しにくくなるからです。
今後は、技術者が何時間働いたかではなく、顧客にどのような成果を提供したかが重要になります。
また、AI時代には経験豊富なシニア人材の価値も変化する可能性があります。
AIを使って情報処理を効率化しながら、長年の経験に基づいて判断する能力は、企業にとって重要な経営資源になり得ます。
若手社員のデジタル技術とシニア社員の専門知識を組み合わせれば、年齢による役割分担を超えた新しい働き方も可能になります。
AI時代に必要なのは、単純に若い人材へ置き換えることではなく、すべての世代の能力を最大限に活用することです。
政府の成長投資だけでは生産性は向上しない
政府は有望産業への官民投資を進め、経済成長につなげようとしています。
しかし、資金を投入するだけで生産性が向上するわけではありません。
企業内部に非効率な制度や慣行が残っていれば、投資効果が十分に発揮されない可能性があります。
例えば、デジタル投資を増やしても、従来の多重下請け構造が変わらなければ、技術者の能力向上や新しいサービスの開発につながらない場合があります。
人材育成に投資しても、一定年齢で役職や報酬を一律に引き下げる制度が残れば、社員の長期的な成長意欲を維持することは難しくなります。
日本企業に必要なのは、設備投資や技術投資と同時に、組織や人事制度、取引構造を改革することです。
特に経営者には、過去の成功体験を前提とせず、現在の経済環境に適した制度を選び直す姿勢が求められます。
結論
日本の生産性が低迷する背景には、企業が長年維持してきた民民規制の存在があります。
多重下請け構造も役職定年制度も、導入された当時には一定の合理性がありました。
しかし、人手不足、少子高齢化、デジタル化、AIの普及によって、企業を取り巻く環境は大きく変わっています。
これからの企業経営では、年齢や所属する取引階層ではなく、個人や組織が生み出す付加価値を正当に評価することが重要です。
多重下請け構造を見直し、技術者の能力が適切に報酬へ反映される仕組みを整えることが必要です。
役職定年についても、年齢による一律の処遇変更から、職務と成果に基づく評価へ転換することが求められます。
日本企業は長年、雇用の安定や組織秩序を重視してきました。
その強みを維持しながらも、時代に合わなくなった制度は柔軟に見直さなければなりません。
生産性向上とは、従業員を減らすことでも、単純に人件費を削減することでもありません。
一人ひとりの能力を最大限に引き出し、同じ経営資源からより大きな付加価値を生み出すことです。
日本経済の成長力を取り戻すためには、政府による規制改革だけでなく、企業自身が作り出した民民規制を打ち破ることが不可欠ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年10月26日朝刊「多重下請けや役職定年…日本の生産性そぐ『民民規制』 世界では異形」