2026年10月、短時間労働者の社会保険加入をめぐる106万円の賃金要件が撤廃されました。
長く意識されてきた年収の壁の1つがなくなったことになります。
しかし、これで働き控えの問題が解決したわけではありません。
配偶者の社会保険の扶養に関係する130万円の壁があります。
社会保険加入に関係する週20時間という労働時間要件も残っています。
さらに最低賃金が上昇するほど、一定の年収以内で働ける時間は短くなります。
106万円の壁撤廃はゴールではありません。
むしろ、日本の社会保険制度と働き方の関係を改めて考える出発点と見るべきでしょう。
408万人が働く時間を抑えている
伊藤忠総研の推計によると、2026年4月から6月に年収の壁を意識して働く時間を抑えていた短時間労働者は408万人いました。
2022年と比べると37万人減っています。
それでも短時間労働者のおよそ2割に相当する規模です。
これほど多くの人が制度上の基準を意識して勤務時間を調整しているのであれば、問題を個人の働き方だけに求めることはできません。
制度そのものが労働行動に与えている影響を考える必要があります。
106万円から130万円へ移るだけでは意味がない
106万円の賃金要件が撤廃されれば、106万円という数字を意識した働き控えは減っていくと考えられます。
しかし、130万円の壁が残っていれば、今度はそこを意識する人が増える可能性があります。
壁の位置が106万円から130万円へ移るだけでは、問題の根本的な解決にはなりません。
さらに130万円を150万円や160万円へ引き上げたとしても、その金額を超えたところで負担が大きく変化するのであれば、新しい壁が生まれます。
重要なのは壁をどこへ動かすかではなく、壁そのものが働き方を左右しにくい仕組みにすることです。
金額の壁から時間の壁へ
106万円の賃金要件がなくなることで、今後さらに注目されるのが週20時間という基準です。
短時間労働者にとって、社会保険加入を考える際の重要な境界線になります。
週19時間なら加入しない。
週20時間になると加入対象になる。
このように認識されれば、勤務時間を週20時間未満に抑える動きが生じる可能性があります。
年収という金額の壁をなくしても、時間の壁による働き控えが起きれば、労働供給を増やす効果は限定されます。
最低賃金上昇が制度改革を迫る
2026年度の最低賃金の全国加重平均は1,177円です。
前年度から56円上昇しました。
年収130万円を目安として単純計算すると、時給1,177円で働ける時間は年間約1,104時間です。
週平均では約21時間になります。
つまり130万円という金額の壁と週20時間という時間の基準が接近しています。
時給1,250円で週20時間、年間52週働けば、単純計算で年収は約130万円です。
今後も賃金が上昇すれば、現在の制度と働き方との間にあるひずみはさらに大きくなる可能性があります。
社会保険の適用拡大という方向
年収の壁による働き控えを減らす方法の1つは、社会保険に加入する人を広げていくことです。
加入するかしないかの境界線に多くの人が集中するのは、境界線を超えたときの負担変化が大きいからです。
より幅広い働き手が社会保険に加入する仕組みになれば、特定の年収に収入を抑える意味は小さくなります。
一方で、社会保険料負担によって短時間労働者の手取りが減る問題もあります。
企業側にも保険料負担が発生します。
適用範囲を広げるだけではなく、加入時の負担変化をどう滑らかにするかも重要になります。
手取りが滑らかに増える仕組み
年収の壁による働き控えを減らすために重要なのは、働けば働くほど手取りが増えるという分かりやすい関係です。
年収が少し増えただけで負担が大きく増えれば、その直前で勤務時間を止めることが合理的な行動になります。
逆に、収入増加に応じて負担も段階的に増えていくのであれば、特定の年収にこだわる必要は小さくなります。
制度改革では、壁の数字そのものよりも、負担の段差を小さくするという視点が重要です。
第3号被保険者制度も論点になる
年収の壁を考えると、国民年金の第3号被保険者制度との関係も避けて通れません。
一定の条件を満たす会社員などの配偶者は、第3号被保険者として自ら国民年金保険料を納めなくても、老齢基礎年金につながる仕組みがあります。
この制度は、家族の働き方や社会構造が現在とは異なる時代に設けられました。
その後、共働き世帯が増え、女性の就業も大きく拡大しています。
一方で、育児や介護などによって十分な勤務時間を確保できない人もいます。
制度を見直す場合には、働き控えへの影響だけでなく、こうした人への社会保障をどう確保するかという視点も必要です。
社会保険料は負担であり保障でもある
年収の壁を議論すると、社会保険料は手取りを減らす負担として注目されます。
確かに現在の家計にとっては大きな負担です。
一方、厚生年金に加入すれば将来の老齢厚生年金が増えます。
健康保険では、一定の要件を満たせば傷病手当金などの保障があります。
障害厚生年金や遺族厚生年金もあります。
社会保険制度改革では、負担をどう抑えるかだけではなく、どのような保障を誰が支えるのかという視点も欠かせません。
企業の雇用行動も変える必要がある
社会保険制度は働く人だけに影響するものではありません。
企業の採用やシフト設計にも影響します。
社会保険加入を避けるために短時間勤務者を多数配置するより、1人当たりの勤務時間を増やした方が効率的な場合があります。
一方で、企業には社会保険料負担が発生します。
そのため制度設計によっては、企業側にも短時間勤務を維持する動機が生まれます。
働く側だけではなく、企業側にも特定の壁を意識させない制度にすることが重要です。
人数ではなく総労働時間を見る
2025年の短時間労働者は1,614万人となり、2019年と比べて5%増えました。
しかし、1人当たりの総実労働時間は月79.1時間となり、7%減っています。
その結果、人数と労働時間を掛け合わせた労働供給量は2%減少しました。
短時間労働者34.8万人分に相当する労働力が減った計算です。
人口減少社会では、就業者数を増やすだけでは十分ではありません。
既に働いている人が、本人の希望に応じて勤務時間を増やせる環境を整えることも重要になります。
働き方を制度に合わせない社会へ
これまで多くの人が、制度に自分の働き方を合わせてきました。
106万円を超えないようにする。
130万円を超えないようにする。
週20時間未満にする。
年末のシフトを減らす。
しかし、本来は逆ではないでしょうか。
働く人が自分の生活や希望に応じて働き、その働き方を社会保障制度が支える。
この順番が自然です。
制度上の数字から逆算して勤務時間を決める社会から、本人が希望する働き方を選べる社会へ変えていく必要があります。
結論
106万円の賃金要件撤廃は、年収の壁をめぐる制度改革の重要な一歩です。
しかし、130万円の壁や週20時間という基準は残っています。
1つの壁をなくして別の壁へ働き控えが移るだけでは、問題は解決しません。
さらに最低賃金が上昇すれば、金額の壁と時間の壁は一段と接近します。
これから求められるのは、壁の金額を何万円にするかという議論だけではありません。
社会保険の適用範囲をどうするのか。
負担の段差をどう小さくするのか。
第3号被保険者制度をどう考えるのか。
短時間労働者の保障をどう確保するのか。
企業側の負担と雇用行動をどう考えるのか。
こうした問題を一体として考える必要があります。
人口減少が進む日本では、働ける人の数そのものが減っていきます。
だからこそ、もっと働きたい人が制度上の壁を理由に勤務時間を抑える状況を減らすことが重要です。
短時間で働きたい人は安心して短時間で働ける。
勤務時間を増やしたい人は、壁を気にせず働ける。
そして働く時間や収入が増えれば、手取りと将来の社会保障もできるだけ滑らかに増えていく。
年収の壁の先に求められる社会保険制度改革とは、単に壁をなくすことではありません。
制度に働き方を合わせる社会から、一人ひとりの働き方を制度が支える社会へ転換することなのです。
参考
日本経済新聞 2026年10月1日朝刊 労働臨界「働き控え」なお400万人超 「年収の壁」106万円撤廃