保育士不足というと、保育士そのものの人数が足りない問題だと思われがちです。
しかし、全国にいる保育士の人数だけでは説明できない問題があります。
保育士がどこで働いているかという地域的な偏りです。
特に東京圏や大阪圏のように鉄道網が発達した大都市圏では、県境を越えた通勤が珍しくありません。
そのため、隣接する自治体の間で給与水準に差があれば、保育士が待遇の良い地域へ移動する可能性があります。
今回、こども家庭庁が公定価格の地域差を縮小しようとしている背景にも、行政区域と実際の労働市場のずれがあります。
保育士の労働市場とは何か
労働市場とは、働きたい人と人材を採用したい企業や施設が出会う市場です。
保育士の場合なら、保育士として働きたい人が働き手となり、保育園などが採用する側になります。
ここで重要なのは、労働市場が必ずしも都道府県や市区町村ごとに分かれているわけではないことです。
例えば埼玉県川口市に住んでいる保育士が、川口市内だけで求人を探す必要はありません。
東京都内へ通勤できるのであれば、東京の保育園も勤務先の候補になります。
千葉県市川市や浦安市などでも同じです。
行政上は千葉県でも、東京都内への通勤が可能です。
働く人にとって重要なのは県境ではなく、実際に通勤できる範囲なのです。
東京と埼玉の間に労働市場の壁はない
東京23区と埼玉県は荒川などを挟んで接しています。
地図では明確に境界があります。
行政制度でも東京都と埼玉県は別です。
ところが鉄道に乗れば、その境界を意識することなく移動できます。
埼玉県南部から東京都内へ毎日通勤する人も多くいます。
保育士についても事情は同じです。
埼玉県内に住んでいるから埼玉県内の保育園で働かなければならないという決まりはありません。
東京都内の保育園の方が給与や勤務条件が良く、通勤時間も許容できるのであれば、東京を勤務先として選択できます。
つまり行政上の県境はあっても、労働市場には同じ強さの境界が存在しません。
公定価格は行政区域の影響を受ける
一方、保育施設の収入を支える公定価格には地域による違いがあります。
公定価格の人件費部分には、地域ごとの賃金水準などを反映するための加算があります。
ここで問題になるのが、制度上の地域区分と実際の通勤圏の違いです。
新しい区分をそのまま適用した場合、東京23区では20パーセントの上乗せとなる一方、埼玉県の川口市や戸田市などでは4パーセントとなります。
東京23区と隣接していても大きな差が生じます。
千葉県側でも、市川市や浦安市などは8パーセントです。
働く人は県境を簡単に越えられるのに、保育施設の人件費を支える制度には大きな地域差が残るわけです。
給与差が職場選びに影響する
2025年の賃金構造基本統計調査によると、保育士の平均月収は東京都が31万円、埼玉県が27万2000円、千葉県が30万4000円でした。
もちろん、地域加算だけでこの給与差が生じているわけではありません。
施設の規模や運営主体、保育士の年齢や勤続年数、自治体独自の支援なども関係します。
それでも、保育士が転職先を選ぶときに給与は重要な条件の一つになります。
例えば、自宅から30分の保育園と40分の保育園があり、後者の方が給与が高ければどうでしょうか。
通勤時間が10分増える代わりに給与が大きく増えるのであれば、後者を選ぶ人もいるでしょう。
県境があるからという理由だけで、給与の高い勤務先を候補から外すとは限りません。
保育園は簡単に給与を上げられない
それなら人材が流出する自治体の保育園も、給与を上げればよいと思うかもしれません。
しかし、保育施設では簡単ではありません。
一般企業なら、人材を確保するために商品の価格を引き上げ、その増収分を賃上げに回すという方法も考えられます。
認可保育所などでは、公定価格を基礎とした公的な仕組みで運営されています。
園側が自由に基本的な保育価格を引き上げ、その分を保育士の給与に回せるわけではありません。
収入の基礎となる公定価格に地域差があれば、採用競争の出発点そのものに差が生じる可能性があります。
人材不足だから給与を上げたい。
しかし、給与を上げるための原資が十分ではない。
保育施設にはこのような難しさがあります。
一人の移動が次の人材不足につながる
保育士の流出は、一人の転職だけで終わらない場合があります。
例えば保育士が不足すると、残った職員の負担が増える可能性があります。
勤務シフトを組む余裕が小さくなったり、休暇を取りにくくなったりすることも考えられます。
職場環境が厳しくなれば、さらに別の保育士が転職を考えるかもしれません。
すると、
給与差によって保育士が流出する
残った職員の負担が増える
職場環境が厳しくなる
さらに人材が流出する
という循環が起こる可能性があります。
保育士不足では、単純な人数だけでなく人材が地域間でどのように移動するかを見る必要があります。
子育て世帯は反対方向へ移動する可能性がある
さらに問題を複雑にするのが住宅価格です。
大都市中心部で住宅価格や家賃が上昇すると、子育て世帯が周辺地域へ住居を求める動きが出てきます。
東京都心から埼玉県や千葉県などへ居住地を移す家庭が増えれば、周辺自治体では保育需要が高まります。
ところが保育士は、給与の高い東京都内へ通勤することができます。
すると、
子育て世帯は都市中心部から郊外へ移る
保育士は郊外から都市中心部へ通勤する
という逆方向の移動が生じる可能性があります。
保育を必要とする子どもが増えている地域から、保育を提供する人材が流出するわけです。
これは保育政策にとって大きな問題です。
保育園があっても保育士がいなければ受け入れられない
保育需要が増えれば、新しい保育施設を整備すればよいと思うかもしれません。
しかし、建物だけでは保育サービスを提供できません。
保育施設では、子どもの年齢や人数などに応じて必要な職員を配置する必要があります。
施設をつくっても、必要な保育士を採用できなければ十分な人数の子どもを受け入れることはできません。
そのため、待機児童問題を考えるときも施設数だけを見ることはできません。
保育士という人的資源がどこにいるのかが重要になります。
保育士の地域間移動は、最終的には地域の保育サービス供給量にも影響するのです。
自治体独自の賃上げ競争では限界がある
保育士の流出を防ぐため、自治体が独自に給与への上乗せ支援を行うことがあります。
これは一定の効果が期待できます。
しかし、すべての自治体が同じように対応できるわけではありません。
自治体によって税収や財政力が違うからです。
財政力の強い自治体が手厚い処遇改善策を設ければ、周辺自治体からさらに保育士を引き寄せる可能性もあります。
周辺自治体も対抗して上乗せを増やせば、自治体間で保育士獲得競争が起こります。
限られた保育士を自治体同士で奪い合うだけでは、地域全体の問題を解決できません。
だからこそ国の公定価格そのものを調整する必要が出てきます。
通勤率を見る意味
こども家庭庁が検討している新しい仕組みで注目されるのが、大都市への通勤率です。
通勤率が高いということは、その自治体が大都市と実質的に一つの労働市場を形成している可能性が高いことを意味します。
行政区域が違っていても、多くの住民が日常的に大都市へ働きに出ているのであれば、給与水準の影響も受けやすくなります。
そこで大都市への通勤率が高い周辺自治体について、公定価格の加算を厚くすることが検討されています。
埼玉県南部などが念頭にあります。
これは地域を地図上の境界だけではなく、人の移動によって捉え直す考え方です。
保育政策も生活圏単位で考える時代になる
これまで行政サービスは、都道府県や市区町村を単位として設計されることが一般的でした。
行政を運営する以上、境界を設ける必要があるからです。
しかし、人々の生活はその境界の中だけで完結しているわけではありません。
住む自治体。
働く自治体。
買い物をする自治体。
子どもが学校へ通う自治体。
それぞれが異なることもあります。
特に大都市圏では、複数の自治体が一つの生活圏や経済圏を形成しています。
保育士の地域格差問題は、こうした現実に制度をどう合わせるのかという問題でもあります。
結論
保育士が県境を越えて流出する理由は、行政区域と実際の労働市場が一致していないからです。
東京23区と埼玉県南部、千葉県北西部などは行政上は別の地域ですが、鉄道などによって結ばれた一つの通勤圏でもあります。
保育士は県境に関係なく、給与や勤務条件、通勤時間などを比較して勤務先を選べます。
一方、保育施設の収入を支える公定価格には行政区域に基づく地域差があります。
このずれが大きければ、公定価格の高い地域へ保育士が流れ、周辺自治体では人材不足が深刻になる可能性があります。
さらに住宅価格の上昇によって子育て世帯が郊外へ移れば、保育需要が増える地域から保育士が都市中心部へ流れるという逆方向の動きも起こり得ます。
保育士不足は、単純に全国の保育士を増やせば解決する問題ではありません。
必要な地域に必要な人数の保育士がいることが重要です。
そのためには、都道府県という行政区域だけでなく、人が実際にどこまで通勤しているのかという生活圏や労働市場を基準に制度を考える必要があります。
参考
日本経済新聞 2026年9月1日朝刊 こども家庭庁、保育士給与の地域差是正