東京都に住んで東京都で働く。
埼玉県に住んで埼玉県で働く。
行政制度だけを見れば、このような形が分かりやすいでしょう。
しかし、実際の生活は都道府県や市区町村の境界の中だけで完結しているわけではありません。
埼玉県に住み東京都へ通勤する人もいれば、千葉県に住み東京都の会社や店舗を利用する人もいます。
住む場所と働く場所、買い物をする場所、医療を受ける場所などが複数の自治体にまたがることで、実質的に一つの地域が形成されています。
こうした実際の人の動きを考えるうえで重要になるのが生活圏や経済圏という考え方です。
こども家庭庁が検討する保育士給与の地域格差是正でも、この考え方が重要になっています。
生活圏とは何か
生活圏とは、人が日常生活を送る範囲を一つのまとまりとして捉える考え方です。
行政区域とは必ずしも一致しません。
例えば自宅は埼玉県でも、勤務先は東京都という人がいます。
休日には東京都内へ買い物に行き、病院は隣の市を利用するかもしれません。
子どもが別の自治体の学校へ通う場合もあります。
この人の生活を埼玉県の中だけで捉えることはできません。
住居を中心として、通勤、通学、買い物、医療など日常的な移動を含めた範囲が生活圏になります。
交通網が発達するほど生活圏は行政区域を越えて広がりやすくなります。
経済圏とは何か
経済圏は、企業活動や雇用、消費などの経済活動が一体的に行われている地域です。
例えば大都市には多くの企業や店舗が集まり、周辺地域から働く人や買い物客が集まります。
一方、そこで働く人のすべてが大都市の中心部に住んでいるわけではありません。
住宅価格や家賃、生活環境などを考えて周辺地域に住み、鉄道などを利用して通勤します。
すると中心都市と周辺自治体は行政上は別々でも、雇用や消費を通じて一つの経済圏になります。
東京圏が典型です。
東京都だけで東京の経済活動が完結しているわけではなく、埼玉県、千葉県、神奈川県などとの大量の人の移動によって巨大な経済圏が形成されています。
生活圏と行政区域は何が違うのか
行政区域には明確な境界があります。
東京都と埼玉県の境界、市川市と江戸川区の境界などです。
税金や行政サービスを運営するためには、こうした境界が必要です。
一方、生活圏には必ずしも明確な境界がありません。
駅まで歩き、電車に乗って川を越えれば別の自治体へ移動できます。
日常生活の中では、県境を越えたことさえ意識しない場合があります。
ここに政策を設計するときの難しさがあります。
行政は区域ごとに運営される。
しかし、人は区域を越えて生活する。
この二つのずれが大きくなるほど、行政区域だけを基準にした制度では現実に合わないケースが出てきます。
保育士も行政区域を越えて働ける
保育士の労働市場も同じです。
例えば埼玉県南部に住んでいる保育士が、埼玉県内だけで仕事を探す必要はありません。
東京都内へ通勤できるのであれば、東京都内の保育園も勤務先の候補です。
千葉県市川市や浦安市などに住む保育士についても同じことがいえます。
保育士から見れば、
給与
勤務時間
休日
職場環境
通勤時間
などを比較して勤務先を決めます。
勤務先が同じ県にあるかどうかは、数ある条件の一つにすぎません。
つまり保育士の労働市場も、行政区域ではなく通勤可能な範囲によって形成されています。
公定価格は行政制度によって決まる
ところが、保育施設の収入を支える公定価格は行政制度によって設計されています。
公定価格の人件費部分には地域による加算があります。
地域ごとの賃金水準などを反映させるためです。
問題は、その地域区分と実際の労働市場が一致するとは限らないことです。
新しい区分をそのまま適用した場合、東京23区では20パーセントの上乗せとなる一方、埼玉県の川口市や戸田市などは4パーセントとなります。
千葉県の市川市や浦安市などは8パーセントです。
行政制度では大きな差があります。
しかし、働く人から見ればいずれも東京都内へ通勤可能な地域です。
制度上は別の地域でも、労働市場では競争相手になっているのです。
大都市への通勤率を見る理由
そこで重要になるのが通勤率です。
ある自治体の住民の多くが大都市へ通勤しているのであれば、その自治体は大都市と強く結びついた経済圏に属していると考えられます。
通勤率は、単に人が移動しているという数字ではありません。
どの地域とどの地域が同じ労働市場になっているのかを知る手掛かりになります。
こども家庭庁は、大都市への通勤率が高い周辺自治体について、公定価格の加算率を引き上げることを検討しています。
埼玉県南部などが念頭にあります。
これは行政区域だけでなく、実際の人の移動を公定価格に反映させようとする考え方です。
なぜ隣接しているだけでは不十分なのか
ここで注意したいのは、大都市に隣接している自治体ならすべて同じ扱いにすればよいわけではないことです。
地図上では隣接していても、交通の便が悪ければ人の移動は少ない場合があります。
反対に、地理的には少し離れていても鉄道で直結していれば、大量の人が通勤することがあります。
重要なのは距離だけではありません。
実際に人がどのように移動しているかです。
その意味でも通勤率は、生活経済圏を判断する重要な材料になります。
子育て世帯の居住地も行政区域を越えて変化する
生活経済圏という考え方は、保育士だけでなく子育て世帯にも当てはまります。
住宅価格や家賃が上昇すれば、子育て世帯は住居費を抑えるために都市中心部から周辺地域へ移ることがあります。
勤務先は東京都内のままでも、住居を埼玉県や千葉県へ移すことができます。
すると周辺自治体では子どもの人口や保育需要が増える可能性があります。
一方、保育士自身も東京都内へ通勤できます。
子育て世帯は周辺地域へ移る。
保育士は中心都市へ働きに行く。
こうした動きが同時に起これば、周辺自治体では保育需要が増える一方で保育人材が不足するという問題が起こります。
行政区域だけを見ていては、この動きを十分に把握できません。
保育政策を自治体単独で考える限界
従来、保育政策では自治体が重要な役割を担ってきました。
地域の子どもの数を把握し、必要な保育サービスを整備するためです。
しかし、大都市圏では自治体単独の対策だけでは解決しにくい問題があります。
例えばある自治体が保育士の給与を独自に上乗せしたとします。
人材確保には有効かもしれません。
しかし、隣の自治体より待遇が良くなれば、そこから保育士を引き寄せる可能性があります。
隣の自治体も対抗して待遇を改善すれば、自治体間の人材獲得競争になります。
地域全体の保育士数が増えないまま、人材を奪い合うだけになる可能性もあります。
同じ生活経済圏にある自治体については、より広い地域単位で制度を考える必要があります。
公定価格を生活圏に近づける意味
こども家庭庁が検討している新たなルールのポイントは、公定価格の地域区分を実際の生活経済圏に近づけることです。
大都市への通勤率が高く、実質的に同じ労働市場となっている地域では、極端な公定価格の差を小さくします。
これによって周辺自治体の保育施設も、人材確保のための給与を支払いやすくなる可能性があります。
もちろん、すべての地域で完全に同じ給与にすることが目的ではありません。
地域ごとの賃金水準には実際に差があるからです。
重要なのは、制度上の差が現実の労働市場とかけ離れないようにすることです。
生活経済圏という考え方は他の政策にも関係する
この問題は保育だけに限りません。
医療、介護、交通、住宅、雇用などでも、人々は自治体の境界を越えて生活しています。
例えば病院について考えても、住んでいる自治体の医療機関だけを利用するとは限りません。
介護職員や看護師も県境を越えて働けます。
公共交通についても複数の自治体をまたいで利用されます。
人口減少が進み、人材不足が深刻になるほど、一つの自治体の中だけで人材やサービスを確保することは難しくなります。
行政区域を維持しながらも、政策については生活経済圏という広い単位で考える必要性が高まっていくと考えられます。
結論
生活圏とは、人が通勤や通学、買い物、医療などの日常生活を送る実際の範囲です。
経済圏とは、雇用や消費、企業活動などを通じて一体となっている地域です。
どちらも都道府県や市区町村という行政区域と一致するとは限りません。
特に東京圏では、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県の間を大量の人が毎日移動しています。
保育士も県境を越えて職場を選べるため、隣接自治体の公定価格に大きな差があれば、待遇の良い地域へ人材が流れる可能性があります。
そこでこども家庭庁は、大都市への通勤率などを考慮し、実際の生活経済圏に合わせて公定価格の地域差を補正する仕組みを検討しています。
行政には境界があります。
しかし、人の生活には同じ境界があるわけではありません。
保育士の地域格差是正は、保育政策を都道府県単位だけで考えるのではなく、人が実際に動いている生活経済圏を基準に考える方向への転換でもあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月1日朝刊 こども家庭庁、保育士給与の地域差是正