契約書に自分で署名した以上、何があっても契約を守らなければならないのでしょうか。
契約は当事者の自由な意思に基づいて結ばれることが基本です。しかし現実には、消費者が「契約したくない」「帰りたい」「考える時間がほしい」と思っていても、事業者から強く勧誘され、断り切れないまま契約してしまうことがあります。
こうした場面で消費者を守る役割を持つのが消費者契約法です。
特に重要なのが、事業者の一定の行為によって消費者が「困惑」し、その結果として契約してしまった場合の取消制度です。
日本経済新聞が紹介した母親の連帯保証を巡る裁判でも、この消費者契約法が重要な争点となりました。
消費者契約法はなぜ必要なのか
私たちは日常生活で数多くの契約を結んでいます。
携帯電話を契約する
保険に加入する
住宅を購入する
リフォームを依頼する
インターネット通販で商品を購入する
これらも基本的には契約です。
しかし、消費者と事業者では、持っている情報や交渉力に差があることがあります。
事業者は商品やサービス、契約について詳しい知識を持っています。一方、消費者が契約内容を完全に理解しているとは限りません。
そこで消費者契約法では、消費者と事業者との間に存在する情報の質や量、交渉力などの格差を踏まえ、一定の場合に消費者を保護する仕組みを設けています。
その一つが、不適切な勧誘によって結ばれた契約について、消費者が意思表示を取り消すことができる制度です。
困惑とはどのような状態なのか
消費者契約法を理解するときに重要な言葉が「困惑」です。
日常会話では、
「どうしたらよいか分からず困っている」
という程度の意味で使われることがあります。
しかし、消費者契約法で問題になる困惑は、単に迷ったというだけではありません。
事業者の一定の行為によって消費者が心理的に追い込まれ、自由な判断が妨げられた結果、契約の申込みや承諾をしてしまった場合などが問題になります。
本当は契約したくない。
いったん帰って考えたい。
家族や専門家に相談したい。
それでも事業者側の行為によってその場から離れられず、契約してしまう。
こうした状況から消費者を救済するための仕組みが設けられています。
帰りたいのに帰らせてもらえない退去妨害
代表的な困惑類型の一つが退去妨害です。
事業者が勧誘している場所から消費者が退去したいという意思を示しているにもかかわらず、事業者が退去させないケースです。
たとえば店舗や事業者の事務所で長時間勧誘を受け、
「もう帰りたいです」
「今日は契約しません」
などと伝えたとします。
それにもかかわらず、事業者が勧誘を続け、消費者をその場所から退去させない。
そして消費者が困惑し、
「契約すれば帰れる」
などと考えて契約してしまう場合があります。
一定の要件を満たせば、その意思表示を取り消すことができる可能性があります。
帰ってほしいのに帰らない不退去
反対のパターンもあります。
それが不退去です。
たとえば事業者が自宅を訪問して商品やサービスを勧誘しているとします。
消費者が、
「契約するつもりはありません」
「もう帰ってください」
と伝えたにもかかわらず、事業者がその場所から退去しない。
その結果、消費者が困惑して契約してしまうケースです。
退去妨害と不退去は似ていますが、方向が逆です。
退去妨害は、
消費者が帰りたいのに帰らせてもらえない。
不退去は、
事業者に帰ってほしいのに帰ってもらえない。
という違いがあります。
どちらも消費者がその場から自由に離れたり、勧誘を終了させたりすることが妨げられる点が問題になります。
困惑による取消しはこれだけではない
消費者契約法の困惑類型は、退去妨害と不退去だけではありません。
法改正によって、消費者の心理につけ込むような一定の勧誘行為についても取消しの対象が広げられてきました。
たとえば、消費者の不安をあおったり、好意の感情を不当に利用したりするなど、法律が定める一定の行為によって困惑して契約した場合が問題になることがあります。
また、消費者が契約するかどうかを検討している段階で、契約前にもかかわらず事業者が契約の目的物を実施してしまうなど、消費者を後戻りしにくい状況へ追い込む行為についても規定があります。
つまり消費者契約法は、
「物理的に閉じ込められた場合だけを救済する法律」
ではありません。
消費者の自由な意思決定を妨げる一定の勧誘行為について、取消しという救済手段を用意しています。
断ったという事実が重要になる
契約トラブルになった場合、
「自分は本当は嫌だった」
という本人の内心だけでは、当時の状況を第三者が判断することは難しくなります。
そこで重要になるのが、契約締結までの具体的なやり取りです。
たとえば、
帰りたいと伝えた
契約しないと伝えた
考える時間がほしいと伝えた
家族に相談したいと伝えた
弁護士に相談したいと伝えた
それでも勧誘が続いた
といった事実です。
後から契約の取消しを巡って争いになれば、こうした具体的な経緯が重要になります。
記録を残しておくことも重要
契約に不安を感じた場合は、関係する資料を保存しておくことも大切です。
契約書
説明資料
電子メール
メッセージ
事業者から渡された書類
契約日時や場所のメモ
誰が同席していたのかという記録
などです。
時間が経過すると、
「言った」
「言っていない」
という争いになる可能性があります。
当時の状況を客観的に確認できる資料があれば、その後の相談や紛争解決にも役立ちます。
今回の連帯保証訴訟では何が起きたのか
日本経済新聞が紹介した事例では、リフォーム会社に勤めていた長男が会社の金銭を着服するなどし、1000万円を超える損害を生じさせました。
母親は長男とともに会社を訪れます。
そこで社長から、長男の債務について連帯保証人となる契約書への署名を求められました。
母親はすぐに署名したわけではありません。
記事によれば、母親は「ちょっと待っていただけますか」「1日だけ待って」などと求めました。
それに対し社長は待てないという姿勢を示し、最終的に母親は署名しました。
その後、会社は長男に約822万円、母親には連帯保証契約に基づいてそのうち約755万円を連帯して支払うよう求めて裁判を起こしました。
横浜地裁は母親への請求を棄却した
2023年3月の一審判決では、長男に対する会社の請求は認められました。
一方、母親に対する請求は棄却されました。
記事によれば、裁判所は、母親が弁護士への相談のため猶予を再三求めたにもかかわらず、社長が強く署名を求めた経緯などを踏まえました。
そして消費者契約法が取消しの対象として定める「退去の意思表示をしたのに退去させない」行為に該当すると判断しました。
母親が困惑したことによって締結された契約であるとして、会社による母親への請求を認めなかったのです。
その後、会社側は控訴しましたが、2023年12月に和解で終結しています。
署名の有無だけでは分からないことがある
この事例から分かる重要なポイントは、契約書だけを見れば母親自身の署名が存在していたということです。
しかし裁判では、
署名があるか
だけではなく、
なぜ署名したのか
署名前に何があったのか
母親はどのような意思を示したのか
事業者側はそれにどう対応したのか
という契約締結までの過程が問題になりました。
契約とは、紙に名前を書く瞬間だけで成立するものではありません。
その前に行われた説明や勧誘、当事者間のやり取りも重要になる場合があります。
ただし強く勧められただけで取り消せるわけではない
注意したいのは、
「強く勧められたから取り消せる」
という単純な制度ではないことです。
営業担当者が熱心だった。
断りにくい雰囲気だった。
家族から署名してほしいと言われた。
こうした事情だけで、当然に消費者契約法による取消しが認められるわけではありません。
法律が定める行為があったのか。
それによって消費者が困惑したのか。
その困惑によって契約したのか。
具体的な事実関係を確認する必要があります。
また、消費者契約法が適用される消費者契約に当たるのかという点も重要です。
実際の契約トラブルでは、個別事情に応じて専門家へ相談する必要があります。
その場から離れることが大切
突然、多額の契約を求められた場合に最も有効なのは、その場で結論を出さないことです。
「今日は契約しません」
「書類を持ち帰ります」
「専門家に確認してから回答します」
と明確に伝えることが重要です。
特に保証契約、不動産、投資、高額なリフォームなど、生活への影響が大きな契約ほど即断する必要はありません。
「今すぐ決めてください」
と言われたときこそ、むしろ慎重になるべきでしょう。
家族が関係する契約ほど冷静になる
今回の連帯保証問題が難しいのは、自分自身のための契約ではなく、息子の問題を解決するための契約だったことです。
家族の問題では、
「自分が何とかしなければ」
という気持ちが生まれやすくなります。
しかし、数百万円の連帯保証契約に署名すれば、その瞬間から自分自身の財産に関わる問題になります。
家族を助ける気持ちと契約上の責任は分けて考える必要があります。
特に老後資金や自宅まで影響する可能性がある契約なら、一度立ち止まることが家族全体を守ることにもつながります。
結論
消費者契約法には、事業者の一定の行為によって消費者が困惑し、その結果として契約した場合に、意思表示を取り消すことができる仕組みがあります。
代表的なのが、帰りたいのに帰らせてもらえない退去妨害と、帰ってほしいのに事業者が帰らない不退去です。
重要なのは、契約書に署名したという結果だけではありません。
契約するまでに何があったのかも重要です。
断ったのか。
帰りたいと伝えたのか。
考える時間を求めたのか。
専門家への相談を求めたのか。
それに対して事業者がどう対応したのか。
こうした事情が、後に契約の効力を判断する重要な材料になる場合があります。
もっとも、後から契約を取り消せるかどうかを争うより、その場で署名しないことのほうがはるかに重要です。
重大な契約ほど、一度その場を離れて考える。
この習慣が、自分の財産を守る大切な防御策になります。
参考
日本経済新聞 2026年8月9日朝刊
「息子の連帯保証、母の苦悩 債務巡る請求訴訟」
消費者契約法