銀行にとって価値の高い顧客とは、どのような人でしょうか。
多額の預金を持っている人を思い浮かべるかもしれません。
もちろん預金残高は重要です。しかし銀行が重視しているのは、現在預けてもらっているお金だけではありません。
給与振込から始まり、クレジットカード、住宅ローン、資産運用、不動産、相続、資産承継まで、何十年にもわたって取引を続けてもらうことができれば、一人の顧客から生まれる収益は大きくなります。
こうした顧客との長期的な関係から生まれる価値を考える際に使われるのが、ライフタイムバリューという考え方です。
LTVの意味
ライフタイムバリューは英語でLifetime Valueといい、一般にLTVと呼ばれます。
日本語では顧客生涯価値などと訳されます。
簡単にいえば、一人の顧客との取引関係が続く期間全体を通じて、企業にもたらされる価値を考える考え方です。
たとえば一回の商品販売で1万円の利益が出る顧客がいたとします。
一回だけ利用して終われば、そこから得られる利益は1万円です。
しかし毎年1万円の利益につながる取引を20年間続けてもらえれば、単純計算では20万円になります。
実際のLTVでは顧客を維持するための費用なども考える必要がありますが、重要なのは一回の取引ではなく長期間の取引全体を見ることです。
銀行でも同じ考え方ができます。
現在の預金残高だけを見るのではなく、
これから何年間取引してくれるのか
どのような金融商品やサービスを利用してくれるのか
将来どれだけ取引が広がる可能性があるのか
まで考えるのです。
一回の金融商品販売との違い
かつて金融機関では、金融商品を販売して手数料を得ることが重要な収益源の一つでした。
投資信託を販売する。
保険を販売する。
外貨建て商品を販売する。
そのたびに販売手数料などの収益を得るという考え方です。
しかし一回の販売による収益だけを重視すると、銀行と顧客の利害が一致しない場合があります。
銀行側が短期的な販売収益を優先し、顧客に頻繁な商品の乗り換えを勧めれば、顧客の信頼を失う可能性もあります。
一方、LTVを重視すると発想が変わります。
今年いくら稼げるかではなく、
この顧客と10年後、20年後も取引を続けられるか
という視点が重要になります。
顧客に長期間利用してもらうためには、満足度や信頼関係も欠かせません。
そのため銀行にとっても、短期的な商品販売から長期的な顧客関係へと重点を移す意味が出てきます。
預金から運用へ取引が広がる
銀行との関係は、人生の段階によって変化します。
若い会社員であれば、最初の取引は給与振込口座かもしれません。
そこからクレジットカードを利用するようになります。
結婚して住宅を購入すれば、住宅ローンを利用する可能性があります。
収入が増えて金融資産が蓄積されれば、預金だけではなく投資信託や株式、債券などによる資産運用を始めるかもしれません。
つまり、
給与振込
預金
クレジットカード
住宅ローン
資産運用
というように、年齢や資産形成に応じて銀行との取引は広がっていきます。
銀行単体だけではなく証券会社や信託銀行などを含む金融グループとして顧客を囲い込むことができれば、預金から投資へお金が移っても顧客との関係を維持できます。
銀行にとって重要なのは、預金を一円も外へ出さないことではありません。
顧客の金融資産が形を変えても、自分たちのグループとの取引を続けてもらうことなのです。
資産が増えると相続や不動産にも広がる
金融資産が大きくなるほど、顧客が必要とするサービスも増えていきます。
たとえば富裕層では、
株式や債券の運用
不動産の購入や売却
生命保険
相続税対策
遺言
信託
生前贈与
事業承継
M&A
などの相談が発生する可能性があります。
預金だけなら銀行が得られる収益機会は限られます。
しかし銀行、証券、信託、不動産などをグループで提供できれば、一人の顧客との取引から複数の収益機会が生まれます。
特に相続は重要です。
高齢の富裕層が亡くなれば、その金融資産は配偶者や子どもなどへ移ります。
銀行が相続前から家族との関係を築くことができれば、相続によって資産が次世代へ移っても金融グループとの取引を維持できる可能性があります。
顧客一人の生涯だけでなく、その家族まで含めて長期的な関係を構築する発想へ広がっていくのです。
銀行が若い富裕層にも注目する理由
銀行にとって現在の資産額だけが顧客価値を決めるわけではありません。
現在40歳で金融資産5000万円を持っている人と、80歳で金融資産5000万円を持っている人では、将来の取引期間が異なる可能性があります。
若い顧客であれば、これから収入や資産がさらに増える可能性があります。
会社員なら昇進によって収入が増えるかもしれません。
経営者なら会社が成長する可能性があります。
株式や不動産の値上がりによって資産が増えることもあります。
現在は富裕層に届いていなくても、将来富裕層になる可能性の高い顧客もいます。
銀行が数千万円規模の金融資産を持つ層を重視する理由の一つは、こうした将来性です。
現在の収益だけでなく、10年後、20年後にその顧客がどれだけ大きな金融取引を行うようになるかを考えれば、早い段階から関係を構築する意味があります。
金融以外の優待にも意味がある
大手銀行が旅行、健康、人間ドック、ゴルフ、空港ラウンジなどのサービスを提供することも、LTVの観点から見ると理解しやすくなります。
こうしたサービスそのものから銀行が大きな利益を得ることが目的とは限りません。
重要なのは顧客との接点です。
金融商品の購入や住宅ローンの契約は毎日行うものではありません。
一方、カード決済や旅行、健康、生活関連サービスであれば、顧客との接点を増やすことができます。
接点が増えれば、顧客が金融機関を単なる預金場所ではなく、生活を支えるサービスとして認識する可能性があります。
結果として顧客が長期間その金融グループを利用すれば、LTVを高めることにつながります。
預金獲得競争も長期戦になる
この視点で考えると、銀行の預金獲得競争の意味も変わって見えてきます。
銀行が1000万円の預金を獲得したとしても、金利キャンペーン終了後に別の銀行へ移されれば、長期的な価値は限定されます。
反対に、その顧客が給与振込やカードを利用し、証券口座を開き、住宅ローンを借り、その後も資産運用や相続相談を続ければ、銀行との取引は数十年間続く可能性があります。
つまり銀行にとって、
いくら預金を集めたか
だけではなく、
誰から預金を集めたか
も重要になります。
将来的に多くの金融サービスを利用する可能性がある顧客であれば、その顧客との関係を維持する価値は高くなります。
これが銀行が富裕層や富裕層予備軍を重視する理由の一つです。
利用者側は囲い込みを理解しておく
LTVを高める戦略は、利用者にとって必ずしも悪いものではありません。
長期間利用する顧客を大切にする銀行であれば、手数料優遇や専門的な相談サービスなどを受けられる可能性があります。
複数の金融サービスを一括して管理できる利便性もあります。
ただし、銀行側と利用者側では目的が異なります。
銀行は長期間取引してもらうことでLTVを高めたいと考えます。
利用者は、自分にとって最も有利な金融サービスを選ぶ必要があります。
長く利用している銀行だからという理由だけで金融商品を選ぶのではなく、金利、手数料、リスク、サービス内容などを比較することが重要です。
銀行との長期的な関係を利用しながらも、金融商品の選択まで一つの金融グループに任せきりにしない視点が必要です。
結論
ライフタイムバリューとは、一人の顧客との取引から長期間にわたって生まれる価値を考える考え方です。
銀行にとって顧客の価値は、現在の預金残高だけでは決まりません。
給与振込から始まり、クレジットカード、住宅ローン、資産運用、不動産、相続、資産承継へと取引が広がれば、一人の顧客との関係から長期間にわたって収益機会が生まれます。
だからこそ銀行は、すでに巨額の資産を持つ富裕層だけでなく、これから資産を増やしていく若い世代や富裕層予備軍にも注目します。
旅行や健康など金融以外の優待を充実させることも、顧客との接点を増やして長期的な関係をつくる戦略と考えることができます。
銀行が欲しいのは、今日1000万円を預けてくれる顧客だけではありません。
10年後、20年後も金融グループを利用し、資産が増え、やがて相続や資産承継まで相談してくれる顧客です。
預金獲得競争の背後では、一人の顧客とどれだけ長く付き合えるかという、銀行の長期的な顧客獲得競争が始まっているのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月20日 朝刊 3メガ、預金顧客優待競う