物価が大きく上昇したというニュースが発表されても、すべての人がその日のうちに将来の物価予想を変更するわけではありません。
毎日のように経済ニュースを確認する人なら、最新の物価統計を見て「これからも物価が上がりそうだ」と考えるかもしれません。
一方、普段ほとんど経済ニュースを見ない人なら、数カ月前と同じ感覚で将来の物価を予想することもあります。
つまり、新しい情報が世の中に出たからといって、人々の頭の中にある情報が一斉に最新のものへ入れ替わるわけではありません。
こうした現実を説明する考え方が「粘着情報」です。
粘着情報とは何か
粘着情報とは、人々が常に最新情報を集めて将来予想を更新するのではなく、一定期間は古い情報を使い続け、時々まとめて情報を更新すると考えるモデルです。
英語ではSticky Informationと呼ばれます。
「粘着」という言葉には、古い情報が人々の頭の中に張り付いて、なかなか新しい情報へ置き換わらないというイメージがあります。
例えば、ある家計が「物価は年間2%程度上昇する」と考えているとします。
その後、実際の物価上昇率が大きく変化したとしても、その家計が新しい情報を確認しなければ、予想は2%程度のまま残る可能性があります。
しばらくしてニュースなどを確認した段階で、初めて予想を修正します。
期待の更新には時間差があるのです。
なぜ情報を毎日更新しないのか
最大の理由は、情報収集にもコストがかかるからです。
物価の動向を正確に把握しようとすれば、消費者物価指数などの統計を確認する必要があります。
さらに、賃金、為替相場、原油価格、金融政策などについて調べることも考えられます。
こうした情報を毎日確認して、自分なりに分析するには時間と労力が必要です。
一般の家計にとって、毎日物価予想を更新するメリットが、それほど大きいとは限りません。
そこで、
普段はこれまで持っている情報を使う
ある程度時間がたったところで新しい情報を確認する
必要に応じて予想を修正する
という行動が生まれます。
これが粘着情報の基本的な考え方です。
古い情報を使い続けるとはどういうことか
例えば、ある人が1月に経済ニュースを確認し、「今年は物価が2%程度上昇しそうだ」と考えたとします。
その後、2月、3月と物価上昇が加速しても、この人がニュースを確認しなければ、頭の中では「2%程度」という予想が残ります。
一方、毎週ニュースを確認している別の人は、新しい物価統計が発表されるたびに予想を修正します。
すると同じ4月時点でも、
頻繁に情報を集める人は3%と予想する
しばらく情報を更新していない人は2%と予想する
といった違いが生まれる可能性があります。
世の中には新しい情報が存在しているのに、全員がその情報を使っているわけではないのです。
情報収集の頻度は家計によって違う
粘着情報を理解するうえで重要なのが、情報を更新する頻度には個人差があるという点です。
経済や投資に関心が高い人なら、毎日のように物価や金利のニュースを見るかもしれません。
一方、経済ニュースをほとんど見ない人もいます。
参考記事で紹介された福岡大学の菊池淳一講師と横浜市立大学の中園善行教授の調査では、日本の家計の約2割は一般物価について1週間に1回情報を収集しています。
その一方で、めったに情報を収集しない家計が半数以上存在するとされています。
つまり、最新の物価情報を持っている家計と、しばらく前の情報を使っている家計が同時に存在しているのです。
インフレ期待にばらつきが生まれる理由
この情報更新の違いは、家計のインフレ期待にも影響します。
もしすべての家計が同じ日に同じ情報を確認し、同じように分析するのであれば、将来の物価予想は比較的似たものになるでしょう。
しかし現実には、情報を更新するタイミングが違います。
今週情報を更新した人もいます。
3カ月前から更新していない人もいます。
さらに長期間、物価について詳しく調べていない人もいるでしょう。
それぞれが異なる時点の情報を使って将来を予想するため、インフレ期待にもばらつきが生まれます。
平均のインフレ期待だけを見ていると、この違いは見えにくくなります。
物価が急変しても期待はゆっくり動く
粘着情報モデルには、もう一つ重要な特徴があります。
経済環境が急激に変化しても、人々の期待は一斉には変化しないという点です。
例えば、原油価格や為替相場の変化によって物価上昇率が急に高くなったとします。
最新情報を確認した人は、すぐに将来のインフレ予想を引き上げます。
しかし情報を更新していない人は、以前の低い予想を維持します。
時間がたつにつれて、少しずつ新しい情報を確認する人が増えていきます。
その結果、社会全体のインフレ期待も徐々に上昇していきます。
現実の期待が経済環境の変化に対してゆっくり反応する理由の一つを、粘着情報によって説明することができます。
金融政策の効果にも時間がかかる
この考え方は、日本銀行の金融政策を理解するうえでも重要です。
例えば、日本銀行が金融政策を変更し、将来の物価について新しい見通しを示したとします。
金融市場の参加者はすぐに情報を確認するでしょう。
銀行や証券会社、機関投資家などは金融政策を仕事として分析しているためです。
しかし一般の家計が同じタイミングで日本銀行の発表を確認するとは限りません。
翌日に知る人もいれば、数週間後にニュースで知る人もいます。
そもそも知らないままの人もいるでしょう。
そのため、金融政策によって家計の期待を変えようとしても、その効果が社会全体へ浸透するまでには時間がかかります。
合理的無関心との違い
粘着情報と似た考え方に、合理的無関心があります。
合理的無関心では、人間の情報処理能力には限界があるため、自分にとって重要性の低い情報には注意を向けないと考えます。
一方、粘着情報では、情報を収集して期待を更新すること自体にコストがかかるため、毎回更新するのではなく一定期間は古い情報を使うと考えます。
どちらも、人間が常にすべての最新情報を使っているわけではないという点では共通しています。
ただし、
合理的無関心はどの情報に注意を向けるか
粘着情報はいつ情報を更新するか
という点に違いがあります。
この2つの考え方を組み合わせると、現実の家計の期待形成をより理解しやすくなります。
私たちの日常にも粘着情報はある
粘着情報は物価だけの話ではありません。
例えば、以前は普通預金の金利がほとんど付かなかったため、「銀行に預けても金利はほぼゼロ」と考えている人がいるとします。
その後、市場金利が上昇して預金金利が変わっても、銀行の金利を確認しなければ以前の認識が残ります。
住宅ローンについても同じです。
以前聞いた金利水準をそのまま現在の金利だと思っていることがあります。
税制や社会保険制度についても、数年前の知識をそのまま使って判断してしまうことがあります。
世の中が変化しても、私たちの頭の中にある情報は自動的には更新されません。
これも粘着情報として考えることができます。
結論
粘着情報とは、人々が常に最新情報を使って将来予想を更新するのではなく、一定期間は古い情報を使い続け、時々情報を更新すると考えるモデルです。
情報を集めて理解するためには時間や労力が必要です。
そのため、すべての家計が新しい物価統計や金融政策を発表と同時に確認するわけではありません。
頻繁に情報を更新する人もいれば、数カ月あるいはそれ以上、以前の情報を使い続ける人もいます。
こうした情報更新のタイミングの違いによって、家計のインフレ期待にはばらつきが生まれます。
また、物価や金融政策が大きく変化しても、社会全体の期待が変わるまでには時間がかかります。
経済を動かしているのは、常に最新情報を持つ人間だけではありません。
新しい情報を持つ人と古い情報を持つ人が同時に存在しています。
この時間差を理解することが、家計の期待や金融政策の効果を考えるうえで重要なのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月2日朝刊 家計の「期待」と経済(3) 人間は合理的ではない