年収が一定額を超えると社会保険料の負担が発生し、手取りが減ることを避けるために勤務時間を抑える「働き控え」が長く問題になってきました。
そこで政府は、いわゆる年収の壁を見直し、より多くの人が働きやすい制度への転換を進めています。
では、年収の壁をなくせば女性はもっと働くようになるのでしょうか。
実は、問題はそれほど単純ではありません。
働き控えの背景には、社会保険制度によって生じる「制度上の壁」だけでなく、将来の収入や年金への影響を十分に把握できない「情報の壁」もあります。
制度を変えるだけでなく、働き方によって生涯所得がどのくらい変わるのかを一人ひとりが理解できるようにすることが重要です。
制度上の壁とは何か
年収の壁としてよく知られているのが、社会保険に関係する壁です。
一定の条件を満たしたパートや短時間労働者は、勤務先の健康保険や厚生年金に加入し、自分で社会保険料を負担することになります。
それまで配偶者の扶養に入り、自分自身では社会保険料を負担していなかった人にとっては大きな変化です。
給与が少し増えただけなのに社会保険料が発生すると、手取りが一時的に減ったり、働いた時間ほど手取りが増えなかったりする場合があります。
そのため、
「これ以上働くと損をする」
と考えて勤務時間を調整する人が出てきます。
これが制度によって生じる働き控えです。
人手不足の企業から見ると、働きたい人がいるにもかかわらず制度が勤務時間を抑える方向へ作用していることになります。
年収の壁は見直されている
こうした問題を受けて、短時間労働者への社会保険の適用は見直しが進んでいます。
これまで「106万円の壁」と呼ばれてきた賃金要件も撤廃される方向となり、年収だけを意識して勤務時間を調整する意味は小さくなっていきます。
一方で、社会保険にはいわゆる「130万円の壁」もあります。
配偶者の社会保険上の扶養から外れたものの、勤務先の厚生年金や健康保険には加入できない場合、自分で国民年金や国民健康保険の保険料を負担するケースがあります。
この場合、負担が増える一方で厚生年金に加入するわけではないため、働き控えにつながりやすい問題が残ります。
つまり、一つの壁をなくしたからといって、すべての働き控えがなくなるわけではありません。
もう一つある心理的な壁
さらに重要なのが心理的な壁です。
制度が変わったとしても、
「社会保険料を払うと損をする」
「扶養を外れない方が得だ」
「年収は一定額以下に抑えた方がいい」
という認識が残れば、働き方は簡単には変わりません。
特に社会保険料は毎月の給与明細から差し引かれます。
負担はすぐに目に見えます。
一方、厚生年金に加入することで増える老後の年金は何十年も先の話です。
現在の一万円と三十年後の一万円では、人が感じる重みは同じではありません。
目の前の手取り減少を大きく感じ、将来得られる利益を小さく評価してしまうことがあります。
その結果、長期的には働く時間を増やした方が経済的に有利でも、短期的な手取りを優先して勤務時間を抑えることが起こります。
将来コストを過小評価する問題
働く時間を減らしたときに失うものは、現在の給与だけではありません。
例えば、年間五十万円収入を抑えた状態が十年間続けば、単純計算でも給与収入だけで五百万円の差になります。
さらに厚生年金への加入状況によって将来の年金額が変わります。
正社員になる機会を見送れば、昇給、賞与、退職金などにも影響する可能性があります。
長期間では、
給与
賞与
昇給
退職金
厚生年金
キャリア形成
といった複数の差が積み重なります。
ところが、勤務時間を決めるときに、こうした数十年後までの影響を計算する人は多くありません。
「今年、社会保険料はいくら取られるのか」
という短期的な数字の方が圧倒的に分かりやすいからです。
海外の研究では情報だけでも働き方が変わった
情報の重要性を示す興味深い研究があります。
スイスでは、出産後にパートで働く母親が多く、短時間勤務による長期的な経済への影響が研究されています。
パートで働く教員の母親約二千四百人を対象にした実験では、一部の人に短時間勤務が生涯収入や年金に与える影響について説明する動画を見せ、さらに年金を試算できるツールを提供しました。
すると、将来の経済的なコストを実際より小さく考えていた人たちは、金融情報や資産形成への関心を高めました。
さらに、情報を受け取らなかった人と比べて翌年度の勤務時間を約七%増やしたとされています。
制度そのものを変更したわけではありません。
将来のお金に関する情報を提供しただけです。
それでも働き方が変わったことになります。
生涯所得を見えるようにする
日本でも、年収の壁について説明するとき、
「この年収を超えると社会保険料が発生します」
という情報だけでは十分ではありません。
それと同時に、
「現在の働き方を続けた場合」
「週に数時間多く働いた場合」
「厚生年金に加入した場合」
「正社員になった場合」
について、生涯の給与や年金がどの程度変わるのかを示すことが重要です。
例えば、ねんきん定期便などで現在の年金見込額を知らせるだけでなく、働き方を変えた場合の将来の年金額を比較できれば、判断材料は大きく増えます。
年間十万円の社会保険料負担だけを見るのと、
「この働き方を三十年続けると将来の年金がこれだけ変わります」
と具体的な金額を示されるのとでは、受け止め方が違うでしょう。
制度改革だけでは働き控えはなくならない
年収の壁をなくす制度改革は重要です。
働く時間を増やした瞬間に手取りが大きく減る仕組みがあれば、合理的に考えて勤務時間を抑える人が出てくるからです。
しかし、制度だけ変えても人の認識が以前のままであれば、働き控えがすぐになくなるとは限りません。
長年、
「扶養の範囲で働く」
という考え方で勤務時間を決めてきた家庭もあります。
企業側でも、従業員自身が希望する年収を超えないよう勤務シフトを調整することが習慣になっている場合があります。
制度変更を知らなかったり、新しい制度を理解するのが難しかったりすれば、以前と同じ働き方が続く可能性があります。
制度の壁を取り除くことと、情報の壁を取り除くことはセットで考える必要があります。
女性が働く時間を増やせない理由は年収の壁だけではない
もう一つ忘れてはいけないことがあります。
女性が短時間勤務を選ぶ理由は、年収の壁だけではありません。
子育てや介護、家事との両立、勤務時間、通勤時間など、さまざまな事情があります。
保育園への送迎がある人に、
「年収の壁がなくなったので勤務時間を増やせます」
と言っても、保育時間や家庭内の役割が変わらなければ働く時間を増やすことは難しいでしょう。
年収の壁を撤廃すれば、それだけで女性の就業時間が大幅に増えると考えるのも単純すぎます。
社会保険制度だけでなく、保育、介護、柔軟な勤務制度、テレワーク、家事や育児の分担なども関係しています。
大切なのは選択肢を増やすこと
ここで注意したいのは、女性にもっと長時間働くことを求めることが目的ではないということです。
短時間勤務を選ぶことも一つの合理的な選択です。
重要なのは、働く時間を増やしたい人が制度のために諦めたり、長期的な経済への影響を知らないまま勤務時間を抑えたりする状況を減らすことです。
将来の給与や年金への影響を理解したうえで、
「それでも家族との時間を優先して短時間勤務にする」
と判断するのであれば、それも本人の選択です。
反対に、
「将来これほど所得や年金が変わるなら、もう少し働こう」
という判断もできます。
情報があることで選択肢が広がります。
結論
年収の壁をなくせば、働き控えを減らす効果は期待できます。
しかし、それだけで女性がもっと働くようになるとは限りません。
働き控えには、社会保険料などによって生じる制度上の壁だけでなく、働き方による生涯所得や年金への影響が分かりにくいという情報の壁があります。
さらに、子育てや介護、家事との両立といった生活上の制約もあります。
必要なのは、単に年収の壁を撤廃することではありません。
働く時間を変えた場合に、現在の手取りだけでなく、将来の給与や年金、生涯所得がどのように変わるのかを分かりやすく示すことです。
目先の手取りだけではなく、数十年先まで含めた選択肢を知ったうえで、自分に合った働き方を決められるようにする。
制度の壁と情報の壁の両方を取り除くことが、働きたい人が自分の意思で働き方を選べる社会につながるのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年8月24日朝刊 多様性 私の視点 年収の壁、本当の得は?