病院経営というと、医師や看護師の人件費、医薬品や医療材料、建物や医療機器などへの支出を思い浮かべるかもしれません。
しかし、これからの病院経営ではもう一つ無視できない費用があります。
医療DXへの投資です。
電子カルテをはじめとする医療情報システムは、一度導入すれば終わりではありません。
システムの更新や保守が必要です。
さらに病院がサイバー攻撃を受ければ診療そのものが止まる可能性があるため、サイバーセキュリティー対策も欠かせません。
一方、2040年に向けて医療従事者が不足するのであれば、デジタル技術を使って業務を効率化する必要性はさらに高まります。
つまり医療DXには、人手不足を補うために必要な投資という側面と、病院経営の新たな負担になるという二つの側面があります。
医療DXとは何か
DXとはデジタルトランスフォーメーションの略です。
単に紙をパソコンに置き換えることではありません。
デジタル技術を利用することで、仕事の進め方やサービスの提供方法そのものを変えていく考え方です。
医療分野でも同じです。
例えば患者の診療情報を電子化する。
医療機関同士で必要な情報を共有する。
検査結果や画像情報を効率的に利用する。
医療従事者の事務作業を減らす。
患者が必要な医療へ円滑につながれるようにする。
こうした取り組みが医療DXに含まれます。
2040年に向けて医療を支える働き手が減るのであれば、現在と同じ業務をすべて人の手で続けることは難しくなります。
その意味で医療DXは、単なる便利なIT投資ではなく、医療提供体制を維持するための基盤になっていく可能性があります。
電子カルテとは何か
医療DXの代表的な仕組みが電子カルテです。
カルテには、患者の症状、診断、治療内容、処方、検査結果など、診療に必要なさまざまな情報が記録されます。
以前は紙のカルテが広く使われていました。
電子カルテでは、こうした診療情報をコンピューター上で記録し、利用します。
電子化することで、必要な情報を検索しやすくなります。
複数の診療科で情報を共有することも容易になります。
検査結果や画像などと診療情報を連携させることもできます。
病院業務の効率化を進めるうえで重要なシステムです。
しかし電子カルテは、一度購入すれば何十年でも使える設備ではありません。
電子カルテには更新が必要になる
電子カルテを導入すると、病院には継続的な費用が発生します。
コンピューターやサーバーなどの機器は古くなります。
ソフトウエアも更新が必要です。
使用している基本ソフトなどのサポートが終了すれば、新しい環境への移行が必要になることがあります。
診療報酬制度や医療制度が変われば、それに対応するためのシステム改修も必要になります。
さらに古いシステムを使い続ければ、セキュリティー上の問題が生じる可能性があります。
そのため病院では、一定期間ごとにシステムを更新していく必要があります。
電子カルテ導入費だけを考えればよいわけではありません。
導入後も、
保守
改修
機器更新
ソフトウエア更新
などの費用が継続的に発生します。
医療情報システムは病院経営における継続的な支出になっていくのです。
システム標準化はなぜ必要なのか
医療DXを進めるうえでは、単にそれぞれの病院が電子カルテを導入すればよいわけではありません。
医療機関の間で情報を円滑に利用できることも重要です。
例えば高齢者が救急搬送されたとします。
搬送先が普段通っている病院とは別の医療機関であれば、患者がどのような病気を持っているのか、どのような薬を使用しているのかといった情報が重要になります。
退院後に在宅医療へ移る場合には、病院から診療所や訪問看護などへ必要な情報を引き継ぐ必要があります。
ところが医療機関ごとにシステムやデータの形式が大きく異なれば、情報連携が難しくなります。
そこでシステムや情報の標準化が重要になります。
病院だけで情報を抱えるのではなく、必要な情報を必要な医療機関などが利用できる仕組みに変えていくことが医療DXの重要な目的の一つです。
サイバーセキュリティー対策が必要になる理由
医療情報をデジタル化すると、新しいリスクも生まれます。
サイバー攻撃です。
病院では大量の個人情報や診療情報を扱っています。
さらに電子カルテなどのシステムが止まれば、単に事務作業ができなくなるだけではありません。
患者の過去の診療情報を確認できない。
処方内容を確認しにくくなる。
検査情報を利用できない。
予約や会計などのシステムが使えない。
状況によっては診療や手術、救急患者の受け入れにも影響する可能性があります。
つまり病院のサイバーセキュリティーは、情報漏洩を防ぐためだけの問題ではありません。
医療を止めないための安全対策でもあるのです。
サイバー対策は一度実施すれば終わりではない
サイバーセキュリティー対策が難しい理由は、継続的な対応が必要になることです。
新しい攻撃手法が登場すれば、それに対応しなければなりません。
ソフトウエアに弱点が見つかれば修正する必要があります。
データのバックアップも必要です。
万一システムが停止した場合に、どのように診療を続けるのかという事業継続の準備も重要になります。
さらに職員が不審なメールを開くなど、人を経由して被害が発生する可能性もあります。
そのため職員教育も必要です。
つまり病院には、
システムを導入する費用
保守する費用
更新する費用
守るための費用
が継続的に発生することになります。
医療DXが新しい固定費になる
固定費とは、事業を続けるために継続的に発生する費用です。
医療DXが進めば、情報システムに関する支出も病院を運営するために欠かせない費用になっていきます。
以前なら電子カルテを導入していない病院でも診療を続けることはできました。
しかし医療情報の共有や業務効率化、セキュリティー対策などの重要性が高まれば、デジタル投資を行わずに病院を運営することは次第に難しくなります。
医療機器と同じように、情報システムも病院の基盤設備になっていくわけです。
しかも更新は一度だけではありません。
病院が存続する限り、一定の投資を続ける必要があります。
この意味で医療DXは病院経営にとって新しい固定的な負担になっていく可能性があります。
人手不足だからこそDXが必要になる
一方で、医療DXは単なる費用ではありません。
2040年に向けて医療人材が不足するのであれば、デジタル技術を使って仕事を効率化する必要があります。
例えば、同じ情報を複数の書類に何度も入力しているのであれば、システム連携によって入力作業を減らせる可能性があります。
医療機関同士で情報を電子的に共有できれば、電話やファクスなどによる確認作業を減らせるかもしれません。
定型的な事務作業を自動化できれば、医療従事者が患者への対応に使える時間を増やすことができます。
重要なのは、医師や看護師の仕事をすべてデジタル技術に置き換えることではありません。
人が行う必要のない作業を減らし、限られた人材を医療そのものへ集中させることです。
働き手が減る社会ほど、DXによる生産性向上の重要性は高まります。
人手不足対策と投資負担という二つの側面
ここに医療DXの難しさがあります。
人手不足だからDXが必要になる。
しかしDXを進めるにはお金がかかる。
という関係です。
経営に余裕のある大規模病院であれば、新しいシステムへ投資しやすいかもしれません。
一方、赤字が続く中小病院では、大規模なシステム更新が重い負担になる可能性があります。
古いシステムを使い続ければ効率化が進まず、セキュリティーリスクも高まります。
しかし新しいシステムへ更新するには多額の資金が必要になる。
病院は難しい判断を迫られます。
医療DXは人手不足を解決する手段である一方、その投資費用が病院の存続可能性を左右する要因にもなり得るのです。
病院の規模によって負担感が変わる
DX投資では、病院の規模も重要になります。
例えば電子カルテやセキュリティー対策には、病院の規模にかかわらず一定のシステムや専門的な対応が必要になる場合があります。
大規模病院であれば、多くの患者や診療収入によって投資費用を負担しやすい可能性があります。
しかし小規模な地域病院では、患者数や収入が限られる一方、必要なシステム投資を大幅に減らすことが難しい場合があります。
その結果、同じDX投資でも小規模病院ほど経営への負担が大きく感じられる可能性があります。
2040年に向けた地域医療を考える場合には、「すべての病院がそれぞれ独自にシステムを持つ」という現在の形が最も効率的なのかも考える必要があります。
DXは病院再編とも関係する
医療DXの問題は、地域医療の再編とも関係します。
複数の病院がそれぞれ高額なシステムを導入し、それぞれで保守やセキュリティー対策を行えば、多くの費用と人材が必要になります。
一方、地域の医療機関が一定の仕組みを共同利用したり、情報連携を進めたりすれば、効率化できる部分が出てくる可能性があります。
医療機能をどの病院に集約するのか。
患者情報をどのように共有するのか。
在宅医療や介護とどのようにつなぐのか。
DXは単なる院内システムの問題ではありません。
2040年の地域医療ネットワークそのものをどのように作るのかという問題につながっているのです。
結論
医療DX投資とは、電子カルテを導入するだけの話ではありません。
医療情報をデジタル化し、医療機関同士で連携し、業務を効率化しながら、安全に医療を提供するための基盤を整える投資です。
そのためには電子カルテなどのシステムを定期的に更新する必要があります。
システム標準化への対応も必要になります。
さらにサイバー攻撃から診療情報や医療提供体制を守るため、継続的なセキュリティー対策も欠かせません。
こうした費用は一度支払えば終わるものではなく、病院を運営する限り継続的に発生します。
その意味で医療DXは、病院経営にとって新しい固定的な費用になっていきます。
しかし2040年に向けて医療人材が不足するのであれば、DXを行わないという選択も難しくなります。
人が足りないからデジタル技術による効率化が必要になる。
その一方で、デジタル化を進めるための資金が病院経営を圧迫する。
この二つをどう両立させるのかが重要になります。
2040年の病院の存続可能性を考えるとき、建物や医療機器だけを見ていては十分ではありません。
電子カルテを更新できるのか。
サイバーセキュリティーを維持できるのか。
そしてDXを使って限られた医療人材の生産性を高められるのか。
デジタル基盤を維持する力もまた、これからの病院の医療供給力を左右する重要な条件になるのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月28日朝刊 2040年の地域医療構想(下) 供給制約や行動変容 考慮を