会社で働いていると、研修を受けているわけでもないのに仕事を覚えることがあります。
隣の席の先輩が顧客と電話している。
上司と同僚が難しい案件について相談している。
会議が終わった後に参加者が、
あの説明では伝わりにくかったね
と話している。
昼休みに先輩から過去の失敗談を聞く。
こうした出来事は、会社が正式に用意した研修ではありません。
本人も、
今から勉強しよう
と思って参加しているわけではないでしょう。
それでも、その経験から仕事について学ぶことがあります。
このように、予定されていなかった出来事や日常の経験をきっかけに生まれる学びを考えるうえで重要なのが偶発的学習です。
リモートワークが広がり、AIが知識を簡単に教えてくれるようになるほど、この何気ない学習の価値が改めて注目される可能性があります。
偶発的学習とは何か
偶発的学習とは、あらかじめ学習することを目的として計画されていなかった活動や経験から生まれる学びです。
例えば新入社員が自分の仕事をしているとします。
近くの席で先輩が顧客から電話を受けました。
顧客はかなり困っているようです。
新人は仕事をしながら、先輩の対応を何となく聞いています。
先輩はすぐに結論を言いません。
まず顧客の話を聞きます。
事実関係を確認します。
最後に、
こちらで確認して今日中に連絡します
と伝えます。
新人はこの会話を聞いて、
トラブルの電話では、すぐ答えるより最初に状況を確認した方がいいのか
と気づくかもしれません。
誰かから教えられたわけではありません。
研修を受けたわけでもありません。
日常の仕事の中で偶然発生した学習です。
計画された研修とは何が違うのか
企業の人材育成では、通常は学習内容をあらかじめ決めます。
新入社員研修なら、
会社の仕組み
ビジネスマナー
商品知識
情報セキュリティー
などを教えます。
管理職研修なら、部下の育成や評価方法などを学びます。
こうした教育は、
何を学ぶのか
いつ学ぶのか
誰から学ぶのか
がある程度決まっています。
偶発的学習は違います。
何を学ぶかは事前には分かりません。
いつ学習が起こるかも分かりません。
たまたま聞いた会話や経験した出来事が学習につながります。
そのため体系的に知識を身につける方法としては、研修の方が優れています。
しかし、現実の仕事がどのように動いているのかを知るうえでは、偶発的学習が大きな役割を果たすことがあります。
職場そのものが教材になる
オフィスにはさまざまな仕事が同時に存在しています。
営業担当者が顧客と話しています。
管理職が部下へ指示しています。
同僚同士が案件について相談しています。
誰かが失敗して対応方法を話し合っています。
新人は自分の仕事だけをしているようでも、周囲から多くの情報を受け取っています。
例えば先輩が上司へ、
この案件は少し気になるので早めに相談しておきます
と言ったとします。
新人は、
こういう段階で上司へ相談するのか
と学ぶかもしれません。
仕事を覚えるというと、自分が担当した仕事から学ぶイメージがあります。
しかし実際には、
他人が働いている姿を見る
他人の会話を聞く
他人の失敗を知る
ことからも学んでいます。
職場そのものが教材になっているのです。
何を質問すればよいか分からない若手に意味がある
経験豊富な社員は、自分に不足している知識をある程度理解しています。
そのため、
この部分が分からないので教えてください
と質問できます。
若手社員はそうとは限りません。
仕事を始めたばかりの段階では、
何が分からないのか分からない
ことがあります。
例えば顧客との打ち合わせについて、
質問はありますか
と聞かれても、何を聞けばよいのか思いつかないかもしれません。
ところが先輩の商談を実際に見ると、
なぜ最初にその質問をしたのだろう
なぜそこで話題を変えたのだろう
という疑問が生まれます。
観察することで初めて質問が生まれるのです。
偶発的学習には、知らなかったことの存在そのものに気づかせる役割があります。
雑談から仕事を覚えることもある
職場の雑談というと、仕事とは関係のないものに思えるかもしれません。
しかし雑談から重要な知識が伝わることがあります。
例えば昼食中に先輩が、
昔、この顧客に急いで回答して大失敗したことがある
という話をしたとします。
なぜ失敗したのか。
その後どう対応したのか。
今は何に注意しているのか。
こうした話には、マニュアルには書かれていない経験が含まれています。
正式な研修で、
私の過去の失敗を説明します
という機会はそれほど多くないでしょう。
しかし雑談なら自然に共有されることがあります。
何気ない会話が、経験の継承につながっているのです。
失敗を目撃することも学習になる
偶発的学習では、他人の成功だけでなく失敗も教材になります。
例えば同僚が顧客への連絡を忘れ、問題になったとします。
その後、上司と担当者が原因を確認します。
連絡期限を明確にしていなかった。
担当者を決めていなかった。
確認する仕組みもなかった。
若手がこのやり取りを見ていれば、
重要な案件では担当者と期限を明確にした方がいい
と学ぶことができます。
自分自身が失敗しなくても、他人の失敗から学べるのです。
これは組織で働く大きな利点の一つです。
一人の経験を周囲の人も共有できれば、組織全体の学習につながります。
在宅勤務では偶発的学習が減りやすい
リモートワークでも仕事に必要な情報は共有できます。
オンライン会議もできます。
チャットで質問もできます。
資料も共同編集できます。
しかし、これらのコミュニケーションには共通点があります。
多くの場合、
何か目的があって始まる
ということです。
会議をするために接続します。
質問するためにメッセージを送ります。
資料を見るためにファイルを開きます。
一方、オフィスでは目的のない情報も自然に入ってきます。
隣の席から会話が聞こえる。
先輩が困っている様子が見える。
上司が誰かを呼んで相談している。
会議から戻ってきた同僚が感想を話している。
こうした情報に偶然触れる機会は、完全な在宅勤務では少なくなりやすいでしょう。
オンラインでは知らないことを検索できない
AIや社内検索システムが発達すれば、
知りたいこと
を調べるのは非常に簡単になります。
例えば、
顧客から値下げを要求された場合の対応方法を教えてください
とAIに質問できます。
しかし問題があります。
そもそも値下げ交渉で何に注意すべきなのか知らなければ、その質問自体を思いつかない可能性があります。
検索やAIは、
自分が知りたいと認識していること
を学ぶには非常に便利です。
一方、
自分が知らないことすら知らない
領域を発見するには、偶然の経験が重要になる場合があります。
職場で他人の仕事を見ることで、
そんな問題があるのか
そんな考え方をするのか
と初めて気づくことがあります。
出社すれば自動的に学べるわけではない
だからといって、会社へ行けば若手が自動的に成長するわけではありません。
例えば全員が出社していても、一日中イヤホンをつけて個人作業をしていたらどうでしょうか。
会議はすべてオンライン。
昼食も一人。
上司と部下の会話もチャットだけ。
これでは、同じ場所にいる意味は小さくなります。
偶発的学習を生み出すには、
人の仕事が見える
質問しやすい
雑談できる
仕事について話し合える
という環境が必要です。
重要なのは出社日数そのものではなく、人間同士の接点が生まれる職場になっているかどうかです。
偶発的学習を意図的に増やすという矛盾
偶発的学習は偶然に起こります。
それなら企業は何もできないのでしょうか。
そうではありません。
学習そのものを計画することはできなくても、
偶然が起こりやすい環境
をつくることはできます。
例えば若手を重要な会議へ同席させます。
部署を超えて社員が交流する機会をつくります。
先輩と若手が一緒に仕事をする時間を増やします。
会議終了後に短い振り返りを行います。
失敗事例を気軽に共有できる職場にします。
すると若手が予想していなかった情報へ触れる機会が増えます。
偶然そのものを設計することはできなくても、偶然が生まれる確率は高められるのです。
AI時代ほど偶然の発見が重要になる
AIは質問に対して答える能力を急速に高めています。
分からないことがあれば、すぐにAIへ質問できます。
そのため知識を得るコストは大きく下がっていくでしょう。
しかし人間の成長には、
答えを得ること
だけでなく、
新しい問いを見つけること
も必要です。
先輩の仕事を見て疑問を持つ。
顧客の反応を見て違和感を覚える。
同僚の失敗を見て自分の仕事を見直す。
雑談から知らなかった考え方を知る。
こうした経験から新しい問いが生まれます。
AIが答えを出すことを得意にするほど、人間には何を問うべきかを発見する能力が重要になります。
偶発的学習は、そのきっかけの一つになります。
結論
偶発的学習とは、あらかじめ計画された研修ではなく、日常の仕事や偶然の出来事を通じて生まれる学習です。
隣の席の先輩が顧客と話している。
上司と同僚が案件について相談している。
会議終了後に参加者が意見を交わしている。
昼食中に先輩の失敗談を聞く。
こうした何気ない出来事も若手にとっては教材になります。
特に経験の少ない社員は、何を質問すればよいのかさえ分からない場合があります。
他人の仕事を偶然見ることで初めて、
こんな問題があるのか
なぜこんな対応をするのか
という疑問が生まれます。
リモートワークやAIによって、必要な情報を効率的に入手できる時代になりました。
その一方で、必要だと思っていなかった情報に偶然出会う機会は意識しなければ減ってしまう可能性があります。
AIは知りたいことには答えてくれます。
しかし、まだ自分が知らない世界の存在に気づくきっかけは、人間同士が同じ場所で働く何気ない瞬間から生まれることがあります。
効率だけでは測れないオフィスの価値の一つが、この偶発的学習なのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月8日 朝刊 コンサル、若手に出社回帰促す AI普及、対人スキル重視