日本企業のM&A(合併・買収)がかつてない勢いで拡大しています。長年続いた超低金利時代には、資金調達コストをあまり気にせず大型買収に挑戦できました。しかし、日本銀行の政策金利が1%に達し、「金利のある世界」が本格的に戻ってきた今、企業経営者にはこれまで以上に厳しい判断が求められています。
企業買収は成長への近道にもなりますが、一歩間違えれば長期間にわたり企業価値を毀損するリスクもあります。今回は、日本企業の大型買収の現状と、金利上昇時代に求められる経営の視点について考えてみたいと思います。
なぜ今、日本でM&Aが急増しているのか
2025年の日本企業関連M&A件数は5,000件を超え、過去最高を更新しました。金額ベースでも約38兆円に達し、2026年はさらに増加する勢いです。
背景には大きく3つの要因があります。
第一に、企業が抱える巨額の現預金です。
日本企業の現預金は350兆円を超える規模に膨らんでいます。デフレ時代には現金保有が合理的でしたが、インフレ環境では事情が変わります。
仮に物価上昇率が2%で預金金利が0.5%なら、実質的には資産価値が毎年1.5%ずつ減少します。
企業にとっても「現金を持ち続けること」がリスクになり始めているのです。
第二に、アクティビストや投資家からの圧力です。
企業価値向上を求める株主は、余剰資金を抱え続ける企業に対し、
・成長投資
・自社株買い
・事業再編
などを強く求めています。
第三に、経済産業省による企業買収指針の整備です。
企業買収提案を真摯に検討することが求められるようになり、日本企業の経営姿勢も大きく変化し始めています。
借金による成長戦略の落とし穴
しかし、M&Aには大きなリスクもあります。
最大のリスクは借入金です。
買収資金の多くを借金で賄った場合、金利上昇が企業収益を圧迫します。
超低金利時代には見えなかった負担が、金利正常化によって表面化するのです。
企業価値は将来キャッシュフローの積み上げです。
借金が増えれば、
・利息負担
・返済負担
・投資余力の低下
が発生します。
その結果、本来成長のために使うべき資金が金融機関への返済に回ることになります。
これは個人の住宅ローンにも似ています。
借入額が大きすぎると、将来の自由度を失うのです。
日本板硝子が残した重い教訓
大型買収の成功と失敗を語る際に欠かせないのが日本板硝子です。
同社は2006年に英国ピルキントンを約6,000億円で買収しました。
当時は世界トップクラスのガラスメーカー誕生として大きな注目を集めました。
しかし、その後の金融危機や市場環境の変化によって業績は低迷します。
問題は買収そのものではありませんでした。
問題は買収資金の多くを借入金に依存していたことです。
その結果、
・利益の大半を返済に充当
・財務体質の悪化
・新たな投資機会の喪失
という状況が続きました。
約20年にわたり債務負担に苦しみ、最終的には金融支援を受けながら上場廃止へ向かうことになりました。
買収は成功しても、資金調達に失敗すれば企業は苦しみ続ける。
日本板硝子はその現実を示した象徴的な事例といえます。
日本製鉄は成功できるのか
現在、市場が最も注目しているのが日本製鉄によるUSスチール買収です。
買収総額は約2兆円。
その結果、有利子負債は5兆円を超える規模になりました。
当然ながら金利上昇は利払い負担を増加させます。
ただし、日本製鉄と日本板硝子には大きな違いがあります。
それは収益力です。
買収後に十分な利益を生み出せれば、
・借入金返済
・設備投資
・株主還元
を同時に実現できます。
逆に期待した利益が出なければ、財務負担が企業価値を圧迫します。
つまり、勝負はこれからなのです。
大型買収は発表時ではなく、統合後の10年間で評価されるものだといえるでしょう。
金利ある世界で企業経営はどう変わるのか
これからの経営者に求められる能力は、単に資金を集める能力ではありません。
資本コストを理解し、投資効率を見極める能力です。
超低金利時代には、
「借りられるだけ借りる」
という発想が成立しました。
しかし今後は、
「借りても十分に稼げるか」
が問われます。
企業は今後、
・投資案件の選別
・資本配分の最適化
・財務健全性の維持
を同時に実現しなければなりません。
まさに経営の質が試される時代に入ったのです。
個人の資産形成にも共通する教訓
実はこの話は企業だけの問題ではありません。
私たち個人にも通じる教訓があります。
住宅購入、投資用不動産、事業資金など、借入を活用する場面は少なくありません。
低金利時代には見えなかったリスクが、金利上昇局面では急速に顕在化します。
重要なのは、
「借りられる額」
ではなく、
「返せる額」
を基準に判断することです。
企業も個人も、成長と安全性のバランスを取ることが求められる時代になったといえるでしょう。
結論
日本企業は長いデフレ時代を終え、「金利のある世界」に戻りました。
M&A市場は活況を呈していますが、大型買収の成否は今後ますます財務力によって左右されます。
日本板硝子が示した20年に及ぶ苦闘は、借入による成長戦略の危うさを教えています。一方で、日本製鉄のように収益力を背景とした挑戦は、日本企業の新たな可能性も示しています。
これからの時代は、単に成長を追うだけではなく、資本コストを意識した経営が求められます。
それは企業だけでなく、私たち個人の資産形成にも共通する重要な教訓なのではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年6月20日 朝刊
金利1%の先(下) 企業焦らす大買収時代 日本板硝子が示す教訓