物価が上がれば、企業は従業員の生活を支えるために賃金を引き上げることがあります。
給与が増えるのだから生活も豊かになるように見えます。
しかし、給与が5%増えても物価も5%上昇していれば、実際に買えるモノやサービスの量が大きく増えたとは限りません。
それにもかかわらず、税制上の基礎控除や税率が適用される所得区分などが固定されたままであれば、名目上の所得増加によって税負担が増えることがあります。
実質的な生活水準がほとんど変わっていないにもかかわらず、インフレによって税負担が重くなっていく現象です。
こうした現象は一般にインフレ増税などと呼ばれます。
令和8年度税制改正で所得税の基礎控除などに物価変動を反映する仕組みが導入された背景を理解するうえでも、重要な考え方です。
名目所得と実質所得は違う
インフレ増税を理解するには、まず名目所得と実質所得の違いを理解する必要があります。
名目所得とは、実際に受け取る金額そのものです。
たとえば年収500万円の人の給与が525万円になれば、名目所得は25万円増えています。
しかし、その間に物価が5%上昇していたらどうでしょうか。
これまで500万円で購入できたモノやサービスを購入するために、おおむね525万円が必要になっていると考えることができます。
給与は増えていますが、購買力という意味では必ずしも豊かになったわけではありません。
この購買力を考慮した所得が実質所得です。
インフレ下では、名目所得が増えていても実質所得が増えているとは限らないのです。
税制は基本的に名目金額で動く
ところが税制では、基本的に名目上の金額を使って所得や税額を計算します。
給与が500万円から525万円に増えれば、税制上は給与収入が25万円増えたことになります。
物価が5%上昇したからといって、自動的に給与を物価上昇前の価値に換算して税金を計算するわけではありません。
このとき基礎控除などの金額が固定されていれば、所得に対して控除が占める割合は徐々に小さくなります。
たとえば所得が増えても基礎控除が同じ金額のままであれば、課税対象となる所得の割合が大きくなる可能性があります。
物価上昇に合わせて賃金が増えただけなのに、税負担まで増えることがあるわけです。
控除額が固定されると実質的な価値が低下する
基礎控除を例に考えてみましょう。
基礎控除が一定額で固定されている場合、物価が上昇しても控除額は変わりません。
仮に物価が長期間にわたって上昇すれば、同じ金額の基礎控除で守られる購買力は少しずつ小さくなります。
つまり、基礎控除の名目額は変わっていなくても、実質的な価値は低下します。
これは非課税限度額などについても同じです。
一定の金額基準を長期間固定すると、インフレによってその基準の実質的な意味が変化していきます。
税制を変更していないから税負担も変わっていない、とは必ずしもいえないのです。
ブラケットクリープとは何か
インフレ増税を説明するときによく登場するのがブラケットクリープという考え方です。
所得税では所得が高くなるにつれて税率が高くなる超過累進税率が採用されています。
課税所得が一定の水準を超えると、その超えた部分により高い税率が適用されます。
物価上昇に合わせて名目賃金が増えれば、実質的な所得がほとんど変わっていなくても、課税所得がより高い税率の区分に入ることがあります。
このようにインフレによる名目所得の増加によって、納税者がより高い税率区分へ押し上げられていく現象がブラケットクリープです。
税率そのものを引き上げなくても、結果として所得に対する税負担が重くなる可能性があります。
税率を上げなくても税収が増えることがある
インフレ増税の特徴は、政府が明示的に税率を引き上げなくても税収が増える可能性があることです。
物価上昇に伴って賃金や企業の売上などの名目金額が増えれば、課税対象となる金額も大きくなります。
所得税では、名目所得の増加によって課税所得が増えたり、より高い税率区分に入ったりする可能性があります。
消費税についても、同じ数量の商品を購入していても税込み前の価格が上昇すれば、一定税率の下でも支払う消費税額は増えます。
そのためインフレ局面では、税率を変更していなくても税収が増加することがあります。
一方、家計側から見れば、実質的な生活水準が改善していないのに税負担が増えるという状況が起こり得ます。
物価連動型控除はインフレ増税を抑える仕組み
そこで考えられるのが、基礎控除などを物価に連動させる仕組みです。
物価が上昇した場合、それに合わせて基礎控除なども引き上げます。
そうすれば名目所得が増えても、控除額も一定程度増えるため、物価上昇だけを原因とする課税所得の増加を抑えることができます。
令和8年度税制改正では、所得税の基礎控除と給与所得控除の最低保障額について、原則として2年ごとに物価上昇を踏まえて見直す仕組みが盛り込まれました。
これは税制上の固定された金額を物価変動に合わせて調整する考え方です。
インフレによる実質的な税負担増を抑える役割が期待されます。
すべてを物価連動させればよいわけではない
もっとも、税制には基礎控除以外にも多くの金額基準があります。
扶養に関する基準、各種所得控除、非課税限度額など、さまざまな制度に固定された金額が使われています。
一部の基準だけを物価連動させれば、別の基準ではインフレによる実質価値の低下が残る可能性があります。
逆に、すべての金額基準を自動的に物価連動させれば制度は非常に複雑になります。
税収の見通しにも影響します。
さらに頻繁な制度変更によって、行政や企業のシステム改修などの負担が増える可能性もあります。
どこまで物価連動させるのかという線引きが必要です。
個人住民税ではさらに難しい問題がある
個人住民税については、所得税以上に複雑な問題があります。
個人住民税には所得割だけでなく均等割があり、一定以下の所得の人を対象とする非課税制度もあります。
さらに住民税非課税という区分は、社会保障給付や各種負担軽減制度の判定にも利用されています。
基礎控除や非課税限度額を物価に合わせて変更すると、地方税収だけでなく社会保障制度の対象者にも影響する可能性があります。
また、個人住民税は地方自治体にとって重要な財源です。
物価上昇によって自治体の行政コストも増えている中で、控除額を引き上げれば税収を減少させる方向に働きます。
家計のインフレ増税を抑えることと、地方財源を確保することを同時に考えなければなりません。
物価が下がった場合にはどうするのか
物価連動にはもう一つ大きな問題があります。
物価が下落した場合です。
物価上昇に合わせて基礎控除を引き上げるのであれば、純粋な物価連動では物価下落時に基礎控除を引き下げる考え方もあり得ます。
しかし、基礎控除を引き下げれば課税所得が増えるため、納税者から見れば増税となります。
インフレ時には控除を増やすが、デフレ時には減らさないという仕組みにすれば、今度は長期的に控除額が上方向だけに動くことになります。
物価連動型税制を持続可能な制度にするには、上昇局面だけでなく下落局面のルールも決めておく必要があります。
インフレ時代には金額を変えないことも税制変更になる
長く物価が上がりにくかった時代には、税制上の金額を固定しておくことの問題はそれほど目立ちませんでした。
しかし、継続的に物価と賃金が上昇する経済では状況が変わります。
基礎控除を10年間同じ金額に据え置いたとしても、10年後の同じ金額が持つ購買力は現在とは異なる可能性があります。
つまりインフレ時代には、
制度上の金額を変えない
ということ自体が、
実質的な税負担を変える
ことにつながり得ます。
物価連動型控除が重要になっている理由はここにあります。
結論
インフレ増税とは、物価と名目所得が上昇する中で、基礎控除や税率区分などが固定されることによって実質的な税負担が重くなる現象を指します。
給与が増えても、物価も同じように上昇していれば生活が豊かになったとは限りません。
それにもかかわらず名目所得の増加によって課税所得が増えたり、より高い税率区分に入ったりすれば、実質的な生活水準が変わらないまま税負担が増える可能性があります。
こうした問題を抑える方法の一つが、基礎控除などを物価に連動させる仕組みです。
一方、どの金額基準まで物価連動させるのか、地方税や社会保障制度との関係をどうするのか、物価下落時にはどう対応するのかという課題もあります。
物価が継続的に上昇する時代には、税率だけを見て税負担を判断することはできません。
控除額や所得区分など、税制の中に置かれた固定金額が物価に対してどのように動くのか。
それが家計の実質的な税負担を左右する重要なポイントになっています。
参考
税のしるべ 2026年8月10日 物価に連動した基礎控除等の引上げに関連して総務省の検討会が今後の個人住民税での対応を検討