職場のハラスメントというと、暴言や人格否定、過大な業務命令などを思い浮かべる人が多いかもしれません。しかし、実務上はその逆の形、すなわち「仕事を与えない」という対応が問題になることがあります。
特に医師や弁護士、研究者などの専門職では、仕事の経験そのものが能力の維持やキャリア形成に直結します。そのため、業務から排除されることは、単なる配置転換以上の意味を持つことがあります。
ここでは、大学病院の医師が長期間臨床業務を担当させてもらえなかった事案をもとに、「過小な要求型パワハラ」と呼ばれるハラスメントの問題を考えます。
事件の概要
本件は、大学病院に勤務していた医師Aが、教授選をめぐる対立を契機として処遇を変更された事案です。
A医師は医師免許取得後、15年以上にわたり複数の病院で臨床経験を積み、大学病院では診察や手術を含む臨床業務を担当していました。また、関連病院への派遣なども行いながら医師としての経験を積んでいました。
ところが、大学の教授選をめぐって医局内で対立が生じます。A医師は所属医局の方針とは異なる行動をとったため、その後、病院側から次のような処遇を受けることになりました。
・病院での臨床業務から外される
・関連病院への派遣を停止される
・医学部学生への教育業務のみを担当させられる
その結果、A医師は臨床医としての業務機会を失い、研究活動以外に担当する職務がほとんどない状態になりました。この状態は10年以上にわたり継続しました。
A医師は、臨床の機会を奪われたことが医師としての能力維持や昇進の機会を失わせたとして、違法な差別的処遇であると主張し、損害賠償を求めて提訴しました。
裁判所の判断
裁判所は、大学病院の対応の一部について違法性を認めました。
まず、A医師は長年にわたり勤務医として臨床経験を積んできた医師であり、仮に医師としての資質に問題があると判断するのであれば、病院側は
・問題点を具体的に指摘する
・改善の機会を与える
・必要な指導を行う
といった対応を行うべきであると指摘しました。
しかし本件では、こうした指導や改善の機会が与えられることなく、医師として最も重要な職務である臨床業務から完全に外されていました。
裁判所は、このような措置について、人事権の合理的範囲を逸脱した違法な差別的処遇であると判断しました。
もっとも、医学部学生に対する教育担当から外した点については、教育の適性判断は大学の裁量が広く認められるとして違法性は否定されています。
一方、臨床業務や外部派遣から外したことについては、医師としての技能維持やキャリア形成に重大な影響を与えるとして、不法行為責任が認められました。
専門職における「仕事を与えない」という問題
この判例が示している重要なポイントは、専門職の場合、「仕事をさせないこと」自体が大きな損害になり得るという点です。
専門職の多くは、実務経験を通じて能力を維持・向上させる構造になっています。例えば、医師の場合は臨床経験が医療技術の維持に不可欠です。
もし長期間臨床から外されれば、医師としての技能向上は難しくなり、昇進や転職の機会も失われる可能性があります。
裁判所も、臨床機会を与えられない状態が10年以上続いたことから、A医師の精神的苦痛は相当に大きいと評価しました。
このように専門職では、「仕事を与えない」という対応が、キャリア形成そのものを損なう結果になることがあります。
企業がとるべき対応
職場では、問題のある従業員にどう対応するかが難しい場面があります。
しかし、その対応として「仕事を与えない」という方法を選ぶことは、ハラスメントと評価される可能性があります。
裁判例の傾向を見ると、企業や組織がとるべき対応として次のような流れが重視されています。
・問題点を具体的に指摘する
・指導や改善の機会を与える
・一定期間の経過観察を行う
・それでも改善しない場合に懲戒などを検討する
つまり、業務から排除するのではなく、改善のプロセスを踏むことが求められているのです。
組織として問題を抱える従業員に対応する場合でも、トラブルを避けるために仕事を与えないという方法をとるのではなく、適切な指導や評価の仕組みを整えることが重要になります。
結論
職場のハラスメントは、必ずしも暴言や強い叱責だけで成立するわけではありません。
専門職の場合、仕事の機会を奪うこと自体が、能力の維持やキャリア形成を妨げる重大な不利益となることがあります。
今回の判例は、「仕事をさせない」という対応が、人事権の範囲を超えて違法と評価される可能性があることを示しています。
職場で問題が生じたときほど、感情的な対応や排除ではなく、客観的な指導と評価のプロセスを積み重ねることが重要だといえるでしょう。
参考
企業実務 2026年3月号
佐藤みのり「判例から読む セクハラ・パワハラの境界線 第71回 “専門職に仕事をさせないことによる損害”」

