来年の物価がどれくらい上がるのかを予想してくださいと言われても、多くの人は将来の経済を正確に分析できるわけではありません。
そこで参考にしやすいのが、これまで物価がどう動いてきたかという過去の経験です。
最近までほとんど物価が上がっていなければ、「これからもそれほど上がらないだろう」と考えるかもしれません。
反対に、毎年のように値上げを経験していれば、「来年も値上げが続くだろう」と考えやすくなります。
このように、過去の実績を参考にしながら将来についての予想を修正していく考え方を「適応的期待」といいます。
適応的期待とは何か
適応的期待とは、過去の実績と自分が以前予想した数字との差を見ながら、将来の予想を少しずつ修正していく考え方です。
英語ではAdaptive Expectationsと呼ばれます。
例えば、ある人が今年のインフレ率を1%と予想していたとします。
ところが実際には3%でした。
すると「思っていたより物価が上がった」と分かります。
そこで来年については、これまでの1%という予想を引き上げます。
ただし、一気に3%へ変更するとは限りません。
例えば2%程度へ修正し、その後も実際の物価を見ながら少しずつ予想を変えていきます。
過去の予測ミスを踏まえて、次の期待を修正していくのが適応的期待です。
過去のインフレ率を重視する
適応的期待では、将来を予想するときに過去の動きが大きな意味を持ちます。
例えば、長期間にわたって物価上昇率がほぼゼロだったとします。
そのような環境が続けば、多くの人は「物価はあまり上がらないものだ」という感覚を持つようになります。
その後、物価が上昇し始めても、すぐに「今後は毎年大幅に物価が上がる」と考えるとは限りません。
過去の経験が強く残っているためです。
反対に、高いインフレ率が何年も続けば、「来年も物価は上がるだろう」という予想が形成されやすくなります。
現在の物価上昇だけではなく、これまでどのような物価を経験してきたのかが将来予想に影響するのです。
合理的期待とは何が違うのか
適応的期待と比較されることが多いのが合理的期待です。
合理的期待では、利用可能な情報を幅広く使って将来を予想すると考えます。
物価を予想するのであれば、過去のインフレ率だけではありません。
日本銀行の金融政策、政府の政策、賃金、為替相場、原油価格など、将来の物価に影響すると考えられる情報も利用します。
一方、適応的期待では過去の実績を重視します。
簡単に整理すると、
合理的期待は現在利用できる幅広い情報から将来を考える
適応的期待は過去の実績をもとに将来予想を修正する
という違いがあります。
現実の家計がどちらか一方だけで期待を形成しているとは限りません。
過去の経験を参考にしながら、ニュースなどから得た新しい情報も取り入れていると考える方が自然でしょう。
予想は少しずつ修正される
適応的期待の特徴は、期待が急激に変わるのではなく、徐々に修正されることです。
例えば、長年ほとんど物価が上がらなかった社会で、突然インフレ率が4%になったとします。
合理的期待の考え方では、その物価上昇の原因や今後の金融政策などを分析して、将来予想を変更します。
一方、適応的期待では、まず「これまで考えていたより物価が上がった」という経験を受けて予想を修正します。
翌年も高い物価上昇率が続けば、さらに予想を引き上げます。
その翌年も続けば、また引き上げます。
このように、実際の物価上昇を経験するたびに、期待が少しずつ現実へ近づいていきます。
物価上昇が続くと予想も上がりやすい
適応的期待が重要なのは、物価上昇が長期間続いた場合です。
例えば、最初は多くの家計が値上げを一時的なものだと考えていたとします。
原油価格の上昇や円安によって一時的に価格が上がっただけで、しばらくすれば元に戻ると考えるわけです。
ところが翌年も値上げが続きます。
さらにその翌年も食品や日用品の価格が上昇します。
すると家計は、
今年も値上げされた
去年も値上げされた
来年も値上げされるかもしれない
と考えるようになります。
過去の物価上昇が積み重なることで、将来のインフレ期待も上昇していく可能性があります。
デフレの経験も期待に残る
反対方向にも同じことが起こります。
長期間、物価がほとんど上がらない状態が続けば、人々の頭の中に「物価は上がらない」という期待が形成されやすくなります。
企業についても同じです。
値上げをすると顧客が離れるという経験が続けば、価格を引き上げることに慎重になります。
労働者も「給料はそれほど上がらない」と考えるようになる可能性があります。
そのため、実際に経済環境が変わっても、期待がすぐには変わらないことがあります。
過去の経験によって形成された期待には、ある程度の慣性があるからです。
これは、長期間デフレや低インフレが続いた経済で、インフレ期待を引き上げることが簡単ではない理由を考えるうえでも重要です。
スーパーの値上げも期待形成に影響する
家計が将来の物価を考えるとき、必ずしも公式な物価統計を確認しているわけではありません。
むしろ、自分が日常生活で経験した価格変化を参考にしている場合があります。
以前100円だった商品が120円になった。
いつも買っている食品が値上げされた。
電気料金が以前より高くなった。
こうした経験が何度も重なると、「最近は何でも高くなっている」と感じるようになります。
そして、その経験をもとに「これからも物価は上がるだろう」と予想する可能性があります。
適応的期待は、このような日常的な経験から期待が形成される仕組みとも相性のよい考え方です。
期待が上がると行動も変わる
インフレ期待が変化すると、家計の行動にも影響する可能性があります。
例えば、今後も価格が上昇すると考えれば、「必要なものなら値上がりする前に買おう」と考えるかもしれません。
企業で働く人なら、将来の物価上昇を見込んで、より高い賃上げを求める可能性があります。
企業側も、原材料費や人件費が今後も上昇すると考えれば、価格設定を見直すかもしれません。
つまり、
実際に物価が上がる
家計や企業がそれを経験する
将来も物価が上がると予想する
消費や賃金、価格設定が変化する
という流れが生まれる可能性があります。
過去の物価上昇が、期待を通じて将来の経済活動にも影響するのです。
適応的期待にも弱点がある
適応的期待は分かりやすい考え方ですが、弱点もあります。
過去の情報を重視するため、将来に大きな変化が起こることが事前に分かっていても、それを十分に反映できない場合があるからです。
例えば、政府が将来大きな制度変更をすると発表したとします。
その変更によって物価が大きく動く可能性が高いのであれば、本来は発表された時点で将来予想を変えることができます。
しかし過去の実績だけを見ていると、新しい政策情報を十分に利用できません。
この問題を克服しようとした考え方の一つが合理的期待です。
一方で現実の人間は、合理的期待が想定するほどすべての情報を利用しているわけでもありません。
そのため、実際の期待形成を考えるには、合理的期待、適応的期待、合理的無関心、粘着情報などを組み合わせて見ることが重要になります。
結論
適応的期待とは、過去の実績と以前の予想との差を参考にしながら、将来についての予想を少しずつ修正していく考え方です。
物価上昇が何年も続けば、人々は「これからも物価が上がるだろう」と考えやすくなります。
反対に、長期間物価が上がらない状態が続けば、「これからも物価はあまり上がらない」という期待が形成されやすくなります。
合理的期待が幅広い情報を利用して将来を考えるのに対して、適応的期待では過去の経験が重要な役割を持ちます。
私たちは将来を直接見ることはできません。
だからこそ、これまで自分が経験してきた物価や賃金の動きを手掛かりにして、これから起こることを予想します。
過去の物価上昇が現在の期待をつくり、その期待が現在の消費や賃金交渉、企業の価格設定を変える可能性があります。
期待を考えるということは、未来の予想だけを見ることではありません。
人々がどのような過去を経験してきたのかを見ることでもあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月2日朝刊 家計の「期待」と経済(3) 人間は合理的ではない