給料が上がれば、家計はその分だけ消費を増やすように思えます。
月給が30万円から31万円になれば、毎月1万円多く使えるようになります。
外食を増やしたり、旅行に出かけたり、欲しかった商品を購入したりする人もいるでしょう。
しかし、賃上げが行われても消費が思ったほど増えないことがあります。
その理由を考えるには、「給料が何パーセント上がったか」だけでは十分ではありません。
物価がどの程度上昇しているのか。
その賃上げが一時的なのか、今後も続くのか。
そして家計自身が将来の所得をどう予想しているのかを見る必要があります。
名目賃金の上昇とは何か
まず名目賃金について確認します。
名目賃金とは、実際に受け取る給与の金額です。
例えば月給が30万円から31万5000円になったとします。
1万5000円増えています。
上昇率は5パーセントです。
この場合、名目賃金が5パーセント上昇したと考えることができます。
給料明細だけを見れば、家計の所得は確実に増えています。
しかし、生活が5パーセント豊かになったとは限りません。
同時に物価も変化しているからです。
実質賃金とは何か
家計の生活を考えるうえでは、名目賃金だけでなく実質賃金が重要です。
実質賃金とは、物価の変化を考慮した賃金です。
例えば名目賃金が5パーセント上昇しても、物価も5パーセント上昇していればどうでしょうか。
給料は増えていますが、商品やサービスの価格も同じ程度上昇しています。
単純化すれば、購入できる商品やサービスの量は大きく増えません。
一方、賃金が5パーセント上昇し、物価が2パーセントしか上昇しなければ、家計の実質的な購買力は改善します。
賃上げが家計を豊かにするかを見るには、物価との比較が必要なのです。
給料が上がっても物価上昇の方が大きい場合
例えば月給が30万円から30万9000円になったとします。
3パーセントの賃上げです。
ところが生活に必要な商品やサービスの価格が5パーセント上昇したとします。
給料明細を見ると9000円増えています。
しかしスーパーでは食品が値上がりし、電気料金やガス料金も上昇しています。
家計は「給料は上がったけれど、以前より生活に余裕がない」と感じるかもしれません。
この状態では、名目賃金が上昇していても消費を積極的に増やすことは難しくなります。
一時的な賃上げでは消費が増えにくいことがある
賃上げの方法も重要です。
例えば会社から、
「今年だけ特別に10万円の一時金を支給します」
と言われた場合を考えます。
家計にとって所得が10万円増えることは間違いありません。
しかし来年も受け取れるとは限りません。
そのため10万円すべてを消費するのではなく、一部を貯蓄する可能性があります。
これは一時的な給付金や減税の場合と同じです。
一時的な所得増加は、将来にわたる所得見通しを大きく変えないためです。
基本給が上がると受け止め方が変わる
一方、基本給が毎月1万円引き上げられ、その状態が今後も続くと考えられる場合はどうでしょうか。
年間では12万円の所得増加です。
しかも今年だけではなく、来年以降も続くと期待できます。
家計は、
「これから毎月使えるお金が1万円増える」
と考えることができます。
すると毎月の外食費を少し増やしたり、趣味に使うお金を増やしたりすることが可能になります。
一時金よりも恒常的な基本給の引き上げの方が、家計の消費水準そのものを変えやすい理由です。
将来も給料が上がるという期待が重要
さらに重要なのは、今年の賃上げだけではありません。
家計が「来年以降も賃金が上がっていくだろう」と考えるかどうかです。
例えば今年5パーセント賃上げされたとしても、
「今年だけ特別に上がっただけで、来年からは賃上げが止まる」
と考えている場合があります。
一方、
「企業の利益が増えているので、来年以降も継続的な賃上げが期待できる」
と考える人もいるでしょう。
今年の賃上げ率が同じでも、将来の所得に対する期待が違えば現在の消費行動も変わる可能性があります。
恒常所得仮説で考える
これは第1回で説明した恒常所得仮説と深く関係しています。
家計は現在の給料だけを見て消費を決めるのではなく、将来にわたってどの程度の所得を得られるかを考えるという考え方です。
例えば今年だけ年収が20万円増えても、来年には元に戻ると分かっていれば、生涯全体の所得増加は20万円です。
一方、毎年20万円多く受け取れる状態が長く続くなら、将来所得への影響ははるかに大きくなります。
そのため同じ今年20万円の所得増加でも、家計の消費への影響が違ってくる可能性があります。
雇用への不安があれば消費を増やさないこともある
賃金が上昇していても、将来の雇用に不安があれば家計は慎重になる可能性があります。
例えば今年は5パーセント賃上げされたものの、会社の業績が悪化しているとします。
家計が、
「来年はボーナスが減るかもしれない」
「数年後には雇用そのものが不安定になるかもしれない」
と考えれば、増えた給料を貯蓄することがあります。
現在の賃上げよりも将来の所得減少への不安を重視するわけです。
賃上げだけを見ても家計の消費を十分に説明できない理由の一つです。
生活必需品の値上がりも消費を抑える
賃上げと同時に生活必需品が大きく値上がりしている場合にも、消費は増えにくくなります。
例えば毎月1万円給料が増えたとします。
しかし食費が5000円増え、電気やガスなどの支払いも5000円増えればどうでしょうか。
増えた1万円は生活費の増加で消えてしまいます。
家計が自由に使えるお金は増えていません。
この場合、賃上げが行われても旅行や外食などの選択的な消費を増やす余裕は生まれにくくなります。
賃金と物価をセットで見る必要がある理由です。
賃上げが続くという安心感が消費を支える
反対に、物価上昇を上回る賃上げが継続すると家計が考えれば、消費を増やしやすくなります。
今年だけではなく来年も賃金が増える。
雇用も安定している。
物価が上がっても、それ以上に所得が増える。
こうした見通しを持てれば、家計は将来に対する安心感を持ちやすくなります。
すると増えた所得をすべて貯蓄するのではなく、現在の消費に回しやすくなる可能性があります。
賃上げが消費につながるためには、金額だけではなく継続性への信頼も重要なのです。
企業の賃上げと家計の期待には時間差がある
企業が賃上げを発表したからといって、家計の将来期待がすぐに変わるとは限りません。
長期間賃金がほとんど増えなかった経験を持つ人なら、
「今年は上がったけれど、これが続くかは分からない」
と慎重に考えるかもしれません。
しかし数年にわたって賃上げが続けば、
「今後も賃金は上がっていく可能性が高い」
という認識に変わることがあります。
一度の賃上げよりも、継続的な賃上げ実績が家計の期待を変える可能性があるのです。
賃金と物価の好循環とは何か
経済政策では、賃金と物価の好循環という言葉が使われることがあります。
物価が適度に上昇する。
企業の売上や利益が増える。
企業が賃金を引き上げる。
家計の所得が増えて消費が増える。
消費の増加によって企業の売上がさらに増える。
このような循環です。
ただし、この循環が成立するためには家計が賃上げを一時的なものではなく、ある程度継続すると考えることが重要になります。
所得が増えても将来への不安からすべて貯蓄されれば、消費を通じた循環は弱くなります。
結論
賃上げが行われても消費が必ず増えるとは限りません。
まず重要なのは、名目賃金ではなく物価を考慮した実質賃金です。
給料が3パーセント増えても物価が5パーセント上昇すれば、家計の実質的な購買力は低下する可能性があります。
さらに、その賃上げが一時的なのか恒常的なのかも重要です。
一時金のような一時的な所得増加なら、家計はその多くを貯蓄するかもしれません。
一方、基本給が上がり、その状態が将来も続くと考えれば、家計は日常的な消費水準を引き上げやすくなります。
そして最も重要なのは、家計自身が将来の所得をどう考えているかです。
「今年だけ給料が上がった」のか。
「これからも給料が上がり続ける」のか。
現在の消費を動かすためには、現在の賃金だけではなく、将来の賃金に対する期待が重要なのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月31日 朝刊 家計の「期待」と経済(1) 将来の視点が左右する消費