日本企業は、人を大切にしてきたといわれます。
新卒で社員を採用し、長い時間をかけて仕事を教え、社内で経験を積ませながら管理職へ育てていく。こうした日本型雇用では、会社そのものが人材育成の場として機能してきました。
ところが、企業が従業員の教育や訓練にどれだけお金を使っているかを見ると、日本の人的資本投資は米国やドイツなどと比べて低い水準にあります。
一見すると不思議です。
人を長期間雇うのであれば、むしろ企業は積極的に社員教育へ投資しそうだからです。
この背景には、日本企業が人材育成をしてこなかったというより、仕事をしながら覚える企業内教育に強く依存してきたという事情があります。
しかしAIやデジタル化が急速に進み、転職市場も拡大するなかで、この仕組みが大きな転換点を迎えています。
日本の人的資本投資は少ない
人的資本とは、従業員が持っている知識、技能、経験、能力などを経済的な資本として捉える考え方です。
企業が社員研修を行ったり、新しい技術を学ばせたり、資格取得を支援したりすることは人的資本への投資になります。
工場や機械にお金を使う設備投資とは異なり、投資した結果が社員自身に蓄積されるところに特徴があります。
日本では、この人的資本への投資が国際的に見て低いことが指摘されています。
厚生労働省の分析では、日本は米国、英国、ドイツと比較して無形資産投資のGDP比が小さく、特に企業特殊的人的資本などを含む経済的競争能力への投資の弱さが目立ちます。
また、日本企業の人材育成投資は1991年をピークに減少し、その後も長期的に低迷してきたとされています。
つまり、日本企業の投資不足を考える場合、工場や機械だけを見るのでは十分ではありません。
人にどれだけ投資しているのかを見る必要があります。
長期雇用なら人材投資を増やしやすい
本来、長期雇用と人的資本投資は相性がよい仕組みです。
例えば会社が社員1人に100万円をかけて専門教育を行ったとします。
その社員が翌年に退職してしまえば、企業は教育投資の成果を十分に回収できません。
一方、その社員が10年、20年と会社で働けば、教育によって高まった能力を長期間会社の仕事に利用できます。
企業からすると、投資を回収しやすくなります。
終身雇用や長期雇用を前提としてきた日本企業には、本来なら人材育成へ積極的に投資する合理性がありました。
実際、日本企業は長い間、社員を社内で育ててきました。
ただし、その育て方に特徴がありました。
日本企業はOJTに依存してきた
日本企業の人材育成を考えるうえで重要なのがOJTです。
OJTとは、実際の仕事をしながら上司や先輩から仕事を教えてもらう教育方法です。
これに対して、通常の仕事から離れて研修や講習を受ける方法をOff JTといいます。
日本企業は伝統的にOJTを重視してきました。
例えば新入社員を営業部門に配置し、先輩社員と一緒に顧客を訪問させます。
先輩の商談を見ながら商品の説明方法や顧客との関係の作り方を覚えていきます。
会社が研修会社へ多額のお金を支払わなくても、仕事を通じて社員を育成できます。
しかも、その会社独自の商品、顧客、業務手順、社内調整などを学ばせるには非常に効率的な方法です。
長期雇用を前提とする日本企業にとって、OJTは合理的な人材育成方法だったのです。
統計では日本の人材投資が小さく見える面もある
ここには注意点があります。
人的資本投資の国際比較では、研修費などのOff JTを中心として計測することがあります。
ところが日本企業はOJTへの依存度が高いため、実際には社員教育をしていても、統計上の人的資本投資として十分に捉えられない場合があります。
厚生労働省も、日本の企業特殊的人的資本が米国、英国、ドイツより低く計測される背景について、Off JTを中心に計測しているため、OJTの多い日本では相対的に小さくなる可能性があると指摘しています。
したがって、日本企業はまったく社員を育ててこなかったと考えるのは正確ではありません。
問題は別のところにあります。
OJTだけでは学びにくい時代になっている
従来の日本企業では、昨日まで会社の中にあった知識を次の世代へ伝えることが重要でした。
熟練社員が若手社員へ仕事を教えることで、会社のノウハウを引き継ぐことができました。
ところがAIやデジタル化が進むと状況が変わります。
会社の中に存在しない新しい知識を学ばなければならないからです。
生成AIの使い方を学ぶ場合を考えてみましょう。
上司自身が生成AIを使ったことがなければ、部下にOJTで教えることはできません。
データ分析、サイバーセキュリティ、AI、クラウドなどについても同じです。
社内に存在しない能力を身につけるためには、大学、専門教育機関、オンライン教育など外部の知識を取り込む必要があります。
従来型のOJTだけでは対応しにくくなっているのです。
非正規雇用の増加も人材投資を難しくした
日本企業の人的資本投資が低迷した背景には、雇用構造の変化もあります。
バブル崩壊後、企業は人件費を抑えるために新卒採用や研修費を削減しました。
同時に非正規雇用が増加しました。
企業からすると、長期間勤務するか分からない労働者に多額の教育費を使うことには慎重になりやすくなります。
そのため正社員と非正規社員では、教育訓練を受けられる機会にも差が生じます。
内閣府の分析でも、Off JTや計画的OJTを実施する事業所の割合は、正社員以外では正社員に比べて低いことが示されています。
長期雇用を前提とした人材育成システムを維持しながら、その対象となる正社員の比率が低下してきたことも、日本全体の人的資本投資を弱くした一因と考えられます。
米国は転職が多いのになぜ人へ投資するのか
ここで興味深い問題があります。
転職が多い社会では、企業は社員教育をしたがらないようにも思えます。
せっかく教育しても、社員が別の会社へ転職してしまうからです。
ところが米国では日本より労働市場の流動性が高いにもかかわらず、人的資本への投資は大きいとされています。
理由の一つとして考えられるのが、人材獲得競争です。
優秀な人材が自由に会社を移れるのであれば、企業側も社員から選ばれる必要があります。
給与だけではありません。
この会社に入れば新しい技術を学べる。
専門能力を高められる。
市場価値を高められる。
こうした教育環境そのものが、会社を選ぶ条件になります。
転職市場の存在が人的資本投資を減らすだけでなく、逆に企業へ人材投資を促す可能性もあるのです。
転職市場が拡大すると会社だけに通用する能力では足りなくなる
日本でも転職が一般的になれば、人材育成の内容が変わっていく可能性があります。
従来の日本企業では、その会社の中で役立つ能力を身につけることが重要でした。
例えば社内の決裁手続き、独自のシステム、取引先との関係、社内調整の方法などです。
こうした能力は企業特殊的人的資本と呼ばれます。
同じ会社で長く働くのであれば非常に価値があります。
しかし転職すると、その一部は使えなくなる可能性があります。
転職市場が拡大すると、データ分析、会計、語学、AI、プログラミング、マネジメントなど、会社を移っても利用できる能力の重要性が高まります。
企業内だけで通用する能力から、労働市場全体で評価される能力へ、人材育成の重点が変わっていく可能性があります。
人材育成は会社から個人へ広がっていく
これからの人的資本形成を企業だけに任せることも難しくなります。
70歳まで働く人が増える一方、同じ会社で40年働くとは限らないからです。
会社が必要とする能力と、個人が長い職業人生で必要とする能力が必ずしも一致しなくなります。
企業による研修に加えて、個人による自己投資、大学や専門教育機関による学び直し、公的な職業訓練などを組み合わせる必要があります。
いわゆるリスキリングが重視される理由もここにあります。
人材育成を会社の中だけで完結させるのではなく、社会全体で人的資本を形成する仕組みへ変えていく必要があります。
人への投資はAI時代ほど重要になる
AIが普及すると、人間の仕事が減るという議論があります。
しかし企業から見れば、AIというソフトウエアを導入するだけでは十分ではありません。
AIを使って業務を設計し直せる人材が必要です。
どの仕事をAIに任せ、どの仕事を人間が担当するのかを考える能力も必要になります。
厚生労働省の分析では、日本は米国、英国、ドイツと比べて無形資産投資の伸びが弱く、無形資産投資の増加と労働生産性の上昇には正の相関がみられます。
機械やソフトウエアだけに投資するのではなく、それを使う人への投資を同時に増やすことが重要になります。
結論
日本企業は長期雇用を前提として、社員を社内で長期間育てる仕組みを築いてきました。
その中心にあったのがOJTです。
仕事をしながら上司や先輩から知識や技能を受け継ぐ方法は、日本型雇用と非常に相性のよい人材育成方法でした。
一方で、日本の人的資本投資は米国やドイツなどと比べて低く、特にOff JTなど外部の知識を取り込む投資の弱さが課題になっています。
AIやデジタル化によって、会社の中に存在する知識を次の世代へ伝えるだけでは競争力を維持できなくなっています。
さらに転職市場が拡大すれば、社員側も一つの会社だけで通用する能力ではなく、会社を移っても評価される能力を求めるようになります。
これから企業に求められるのは、人材を囲い込むための教育ではなく、人材の市場価値そのものを高める教育なのかもしれません。
人が会社を選ぶ時代になれば、人材育成への投資そのものが企業の競争力になります。
人的資本への投資不足を解消できるかどうかは、AI時代の日本企業の生産性と賃金を考えるうえでも重要な課題になりそうです。
参考
日本経済新聞 2026年8月26日 朝刊 点検・骨太2026(下) 無形資産投資で賃上げを