AIやサイバーセキュリティーなどの高度な専門知識を持つ人材を巡り、企業の採用競争が激しくなっています。
これまで日本企業の賃金は、年齢や勤続年数、社内での役職などを基準として決めるケースが一般的でした。しかし、高度専門人材については、この考え方だけでは採用できなくなりつつあります。
そこで広がっているのが、社内の賃金相場ではなく、転職市場で形成される人材の市場価値を基準として処遇を決める考え方です。
いわば人材の時価採用です。
高度専門人材とは何か
高度専門人材とは、企業経営にとって重要でありながら、労働市場で供給が限られている専門能力を持つ人材です。
代表的なのがAI、データサイエンス、サイバーセキュリティー、システム開発、金融マーケット、法務、コンプライアンスなどの専門家です。
こうした分野では、単に資格や知識を持っているだけではなく、実際に高度なプロジェクトを動かした経験なども市場価値を大きく左右します。
特にAIやサイバーセキュリティーでは、採用する企業が日本企業だけとは限りません。
外資系企業やIT企業なども同じ人材を求めます。
その結果、人材の値段が社内の賃金体系ではなく、外部の労働市場で形成されるようになります。
時価採用とは何か
時価採用という考え方を理解するには、従来の日本企業の賃金制度と比較すると分かりやすくなります。
例えば、ある会社では30代前半の社員の年収が700万円前後だったとします。
そこへ優秀なAI技術者を採用しようとしたところ、転職市場では年収1500万円程度を提示しなければ採用できないとします。
従来型の賃金制度では、
同じ30代なのになぜ2倍以上の給料を払うのか
という問題が生じます。
しかし時価採用では発想が違います。
その人が何歳なのかではなく、
その専門能力を現在の市場で採用するにはいくら必要なのか
を基準として処遇を決めます。
株式や不動産に市場価格があるように、人材にも転職市場を通じた市場価格が形成されていると考えるわけです。
年功型賃金ではなぜ対応しにくいのか
日本企業が直面する大きな問題が就業規則や給与規定です。
年功型の企業では、年齢、勤続年数、資格、役職などをもとに給与体系が設計されています。
そのため、非常に高い専門能力を持つ人を採用したくても、既存の給与テーブルでは十分な金額を提示できないことがあります。
例えば30代の人材に部長級を超える給与を提示しようとしても、制度そのものが想定していなければ対応が難しくなります。
そこで基本給とは別に調整給などを上乗せする方法も考えられます。
ただし、一時的な調整として始めた手当が恒常化すると、労務管理上の問題につながる可能性があります。
企業としては単に高い給料を払えばよいわけではありません。
なぜその人にその金額を支払うのかという制度上の根拠まで整える必要があります。
ジョブ型雇用が時価採用と相性がよい理由
そこで重要になるのがジョブ型雇用です。
ジョブ型では、年齢や勤続年数よりも、担当する職務や責任、必要となる専門能力などを基準として処遇を決めます。
例えば、
AI戦略を担当する
高度なサイバー攻撃への対応を担う
金融市場で専門的な取引を担当する
といった職務そのものに値段を付けます。
そのため30代であっても、その仕事の市場価値が高ければ高い年収を設定できます。
逆に年齢が高いという理由だけで高い給与になるとは限りません。
人に給料を付けるというより、仕事や専門能力に給料を付ける発想に近くなります。
SOMPOは専門人材をグループで一括採用する
SOMPOホールディングスは高度専門人材を獲得するため、SOMPOプロフェッショナルプールという採用方式を始めています。
AI、サイバーセキュリティー、法務、コンプライアンスなどの専門人材をジョブ型雇用の正社員として一括採用し、グループ各社へ出向させる仕組みです。
背景には、グループ企業ごとに人事制度や採用力が異なるという問題があります。
小規模なグループ会社が単独で高度専門人材を採用しようとしても、既存社員との賃金差が大きくなりすぎたり、採用ブランドの面で大企業や外資系企業に負けたりする可能性があります。
そこで持ち株会社側で採用することで、グループ全体として市場価格に対応できるようにします。
30代前半でも年収千数百万円以上を可能にするというのは、その象徴でしょう。
三菱UFJ銀行は専門人材用の給与規定を設ける
すべての社員を一気にジョブ型へ変える必要があるわけではありません。
三菱UFJ銀行のEx制度は、その代表例です。
従来型の人事制度を残しながら、高度専門人材について別の給与規定を設けています。
システム開発、金融マーケット、サイバーセキュリティーなどの人材について、専門性に応じた基本給や成果報酬を設定できるようにしています。
これによって30代半ばでも支店長や部長級に相当する年収を設定することが可能になります。
興味深いのは、外部から採用する人だけが対象ではないことです。
すでに社内で働いている専門性の高い人材にも制度を適用しています。
これは非常に重要です。
外から採用した人だけに高い給料を払えば、同じ能力を持つ内部人材が、
転職した方が市場価値で評価してもらえる
と考える可能性があるからです。
時価採用は時価処遇とセットで考える必要があります。
富士通では年収2500万円から3500万円も可能
富士通も高度専門職向けの処遇制度を設けています。
サイバーセキュリティー、AI、データサイエンス、社内弁護士などを対象として、高度専門人材をランク分けして処遇します。
特に希少性や貢献度が高い人材については、報酬を個別設定できる仕組みがあります。
最上位では年収2500万円から3500万円という水準も可能とされています。
ここまで来ると、一般社員の給与テーブルの延長線上で考えることは難しくなります。
年齢や勤続年数ではなく、
この専門能力を会社が確保するためにはいくら必要なのか
という発想になります。
まさに人材を市場価値で評価する世界です。
高い給料には厳しい評価も伴う
もっとも、時価採用は単純な賃上げ制度ではありません。
市場価値に応じて高い給与を支払う以上、その専門能力が会社へどれだけ貢献しているのかも問われます。
職務内容、責任範囲、成果などを明確にし、定期的に評価する必要があります。
例えば市場価値1500万円の専門家として採用されたとしても、その専門性が陳腐化したり、期待された成果を出せなかったりすれば、同じ処遇が永久に保証されるとは限りません。
年功型では勤続年数の増加とともに給与が上昇する傾向があります。
時価型では市場価値そのものが変動します。
高い報酬と厳しい評価は表裏一体になります。
これから企業内で二つの賃金相場が生まれる
高度専門人材の時価採用が広がると、日本企業の中には二つの賃金相場が存在するようになる可能性があります。
一つは社内相場です。
年齢、勤続年数、役職などを基準として形成される従来型の給与です。
もう一つが市場相場です。
AIやサイバーセキュリティーなど、転職市場で希少性の高い専門能力につけられる価格です。
これまで日本企業では社内相場の影響力が圧倒的に強かったといえます。
しかし人材の流動化が進めば、市場相場を無視することは難しくなります。
優秀な人材ほど、
社内では自分はいくらなのか
だけではなく、
転職市場では自分はいくらなのか
を意識するようになるからです。
企業側にも同じ視点が必要になります。
結論
高度専門人材の時価採用とは、年齢や勤続年数を中心とした社内の賃金相場ではなく、転職市場における専門人材の市場価値を基準として処遇を決める考え方です。
AIやサイバーセキュリティーなど世界的に人材獲得競争が激しい分野では、従来の年功型賃金だけでは必要な人材を採用できないケースが増えています。
しかし問題は単純に年収を高くすれば解決するわけではありません。
就業規則や給与規定を整え、職務や責任、評価方法、高い報酬を支払う根拠を明確にする必要があります。
さらに外部から採用する人だけを市場価格で評価すれば、すでに社内にいる高度専門人材との逆転現象も起こります。
したがって時価採用が広がれば、いずれ時価処遇へと議論が進むでしょう。
日本企業の賃金制度は、何年働いたかを重視する仕組みから、どのような専門能力を持ち、どのような仕事を担い、その能力が現在の市場でいくらなのかを重視する仕組みへと変化し始めています。
高度専門人材の争奪戦は、単なる採用競争ではありません。
日本企業の賃金の決め方そのものを変える動きといえます。
参考
日本経済新聞 2026年8月24日朝刊 高度専門人材を「時価採用」