人材流動化が進むなか、従来型の退職金制度を廃止したり、給与や企業型確定拠出年金へ振り替えたりする企業が出てきています。
ところが、その反対の動きをする会社もあります。
退職金を増やす会社です。
一見すると矛盾しているように見えます。
しかし企業が置かれている人材市場を考えると、必ずしも矛盾ではありません。
外部から専門人材を次々に採用したい企業では、長期勤続を前提とした退職金より現在の給与を高くする方が有効な場合があります。
一方、人手不足が深刻で、採用した社員に長期間働いてもらうことが重要な企業では、退職金を手厚くすることが人材定着につながる可能性があります。
退職金を減らす企業と増やす企業が同時に現れるのは、企業ごとに必要な人材戦略が違うからです。
退職金を増やす会社もある
元の記事では、仙台市の総合建設会社橋本店の取り組みが紹介されています。
橋本店は2026年1月、退職金の算定方法を見直しました。
大卒社員が60歳で退職する場合のモデル退職一時金を、従来の約1300万円から最大2000万円へ引き上げました。
約5割の増額です。
人材流動化が進み、退職金を縮小する企業が出ているなかで、逆に退職金を大幅に増やしたことになります。
背景にあるのが建設業の人手不足です。
退職金を採用や人材定着に生かそうとしているのです。
なぜ人手不足で退職金を増やすのか
人手不足になれば、企業は社員を採用することが難しくなります。
採用できたとしても、短期間で転職されれば再び採用活動をしなければなりません。
一人の社員が辞めれば、
求人広告
採用活動
面接
新人教育
現場での指導
などをもう一度行う必要があります。
特に経験や技能が重要な仕事では、新しい社員が入社したからといって、翌日からベテラン社員と同じ仕事ができるわけではありません。
企業にとっては、
採用すること
だけでなく、
採用した社員に長く働いてもらうこと
が重要になります。
そこで退職金が人材定着の手段になります。
長く働くほど有利になる
従来型の退職金制度には、勤続年数が長くなるほど支給額が増えるものがあります。
しかも単純に勤続年数に比例するとは限りません。
長期勤続になるほど支給率を高くする制度もあります。
社員からすると、
あと5年働けば退職金が大きく増える
あと10年働けばさらに増える
という状態になります。
現在の給与だけではなく、将来受け取る退職金まで考えて会社に残るかどうかを判断するようになります。
この仕組みが長期勤続へのインセンティブになります。
退職金は会社に残る理由を作る
たとえば50歳の社員がいるとします。
現在退職すれば退職金1000万円。
60歳まで働けば退職金2000万円。
という制度なら、10年間会社に残ることで退職金が1000万円増えることになります。
別の会社から年収が少し高い転職の誘いを受けても、
退職金まで考えると今の会社に残った方がよい
と判断する可能性があります。
企業から見ると、退職金には社員の離職を抑える効果が期待できます。
特にベテラン社員を確保したい企業では重要な意味を持ちます。
技能が重要な業界では長期勤続に価値がある
すべての仕事が短期間で習得できるわけではありません。
建設業。
製造業。
設備保守。
技術職。
熟練が必要な仕事では、長年の経験によって身につく知識があります。
図面だけでは分からない現場の判断。
設備のわずかな異常を見つける感覚。
顧客との長期的な関係。
後輩への指導方法。
こうした知識や技能は、社員が会社を辞めると一緒に失われる可能性があります。
そのため企業には、経験豊富な社員に長く働いてもらうメリットがあります。
退職金はそのための報酬制度として機能します。
技能承継にも退職金が関係する
人手不足の企業では、単に社員数を維持すればよいわけではありません。
ベテラン社員から若手社員へ技能を引き継ぐ必要があります。
技能承継には時間がかかります。
50代の熟練社員が突然退職してしまえば、若手へ技術を伝える時間がなくなるかもしれません。
そこで、
長く働くほど退職金が増える
という制度によってベテラン社員の定着を促すことには意味があります。
社員が長く働けば、その間に若手を育成できます。
退職金は老後資金だけではなく、企業の技能を次世代へ残すための仕組みにもなり得ます。
採用でも退職金が差別化になる
人手不足になると、求職者が会社を選べる場面が増えます。
A社は退職金なし。
B社は退職金1000万円程度。
C社は退職金2000万円程度。
ほかの条件が同じなら、退職金が手厚い会社に魅力を感じる人もいます。
特に、
一つの会社で長く働きたい
老後資金を自分だけで準備するのは不安
という人にとって、退職金は重要な待遇です。
企業が退職金を増やすことは、
長く安心して働ける会社です
というメッセージにもなります。
若い社員には将来の2000万円が見えにくい
一方、退職金には弱点もあります。
たとえば22歳の新入社員に、
60歳まで働けば2000万円の退職金があります
と説明しても、38年後の話です。
現在の生活では使えません。
そのため若い社員の中には、
38年後の2000万円より今の給与を増やしてほしい
と考える人もいます。
住宅費。
子育て費用。
奨学金の返済。
資産形成。
若い時期にもお金が必要だからです。
退職金を増やせば必ず採用力が上がるとは限りません。
どのような人材を採用したいのかによって効果は変わります。
転職志向の人には魅力が小さいこともある
5年後や10年後に転職することを前提としている人にとっても、長期勤続型の退職金は魅力が小さい場合があります。
30年勤務すると2000万円。
10年勤務では300万円。
という制度なら、長期間勤務する人ほど有利です。
転職を繰り返しながらキャリアを形成したい人にとっては、
基本給が高い
成果報酬が大きい
企業型DCへ毎年掛金が入る
といった制度の方が魅力的に見える場合があります。
退職金が採用に有効かどうかは、採用したい人材の働き方によって変わります。
退職金を減らす会社とは戦略が違う
退職金を廃止する企業と増やす企業を見ると、
どちらが正しいのか
と考えたくなります。
しかし、企業によって必要な人材が違います。
たとえば外部から高度専門人材を積極的に採用する会社なら、現在の市場価値に応じた高い給与を提示することが重要です。
40歳で入社する専門人材に、
30年以上働けば退職金が大きくなります
と説明しても魅力が伝わりにくい場合があります。
一方、技能を長期間かけて育てる会社なら、
20年、30年働くほど報酬が増える
制度に意味があります。
退職金制度の違いは、企業の人材戦略の違いなのです。
人材流動化だけが正解ではない
日本では人材流動化の必要性がよく議論されます。
成長分野へ人材を移す。
専門能力を高く評価する会社へ転職する。
中途採用を増やす。
こうした動きは経済全体の生産性を高める可能性があります。
しかし、すべての社員が頻繁に転職すればよいという意味ではありません。
企業固有の技術やノウハウを長期間かけて身につける仕事もあります。
顧客との信頼関係を何年もかけて築く仕事もあります。
長期勤続に価値がある企業では、社員を定着させる報酬制度にも合理性があります。
退職金は将来の報酬である
退職金を増やすということは、現在の給与を増やすこととは意味が違います。
給与を月5万円増やせば、社員はすぐに使えます。
退職金を増やしても、基本的には退職するまで受け取れません。
つまり会社は、
現在働くこと
だけでなく、
将来まで会社に残ること
に報酬を付けています。
退職金は未来に支払われる報酬です。
この時間差が社員の定着を促します。
企業側には将来の負担も生まれる
もちろん退職金を増やすことには企業側の負担があります。
将来支払う退職金が増えるからです。
社員数が多ければ、企業全体の退職給付負担は大きくなります。
制度によっては会計上の退職給付債務などにも影響します。
そのため、
採用が難しいから退職金を増やそう
と簡単に決められるものではありません。
企業は、
給与を増やすのか
賞与を増やすのか
退職金を増やすのか
企業型DCを増やすのか
を比較しながら限られた人件費を配分します。
退職金と給与では社員へのメッセージが違う
同じ年間10億円の人件費を増やすとしても、使い方によって社員へのメッセージは変わります。
基本給を増やせば、
現在の仕事を高く評価します
という意味が強くなります。
成果報酬を増やせば、
高い成果を出した人を評価します
という制度になります。
企業型DCの掛金を増やせば、
社員の老後資産形成を支援します
という意味があります。
退職金を増やせば、
長く働いてくれる社員を厚く処遇します
というメッセージになります。
報酬制度そのものが企業の人材戦略を表しているのです。
社員側も自分の働き方に合わせて見る
社員にとっても、
退職金が多い会社が必ず良い会社
とは限りません。
一つの会社で長く働きたい人なら、退職金の手厚さは重要です。
数年ごとに転職して専門性を高めたい人なら、現在の給与や企業型DCの方が重要かもしれません。
若い時期の生活費を重視する人なら、将来の退職金より現在の給与を高くしてほしい場合があります。
反対に自分で老後資金を貯めるのが苦手なら、退職金制度に魅力を感じるでしょう。
会社の制度と自分の働き方が合っているかを見る必要があります。
結論
人材流動化が進むなかでも、退職金を増やす会社があります。
その理由は、企業によって必要な人材戦略が違うからです。
外部から専門人材を積極的に採用する企業では、長期勤続を前提とした退職金より現在の給与や企業型DCを重視する方が有効な場合があります。
一方、人手不足が深刻で、採用した社員に長期間働いてもらう必要がある企業では、退職金を手厚くすることに意味があります。
元の記事で紹介された橋本店は、2026年1月の制度改定で、大卒社員が60歳で退職する場合のモデル退職一時金を約1300万円から最大2000万円へ引き上げました。
約5割の増額です。
背景には建設業の人手不足があります。
退職金を増やすことで、
この会社で長く働けば将来の報酬が大きくなる
というインセンティブを強めています。
退職金には老後資金という役割だけでなく、
採用
人材定着
技能承継
長期勤続へのインセンティブ
という人事戦略上の役割があります。
そのため、これから退職金制度は一方向になくなっていくとは限りません。
退職金を廃止して給与へ移す企業。
企業型DCへ移す企業。
逆に退職金を増やす企業。
さまざまな会社が現れるでしょう。
重要なのは、
退職金が新しいか古いか
ではありません。
その会社がどのような人材に来てほしくて、どのくらい長く働いてほしいと考えているのかです。
退職金制度を見ることは、その企業の人材戦略を見ることでもあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月31日夕刊 退職金、なくなるの? 人材流動化で見直しも