保育士の給与には地域によって差があります。
一般企業であれば、東京の給与が地方より高いことはそれほど不思議ではありません。家賃や物価、企業の賃金水準などが地域によって違うからです。
しかし、保育施設の場合は事情が少し異なります。
認可保育所などの運営費は国が定める公定価格を基礎としており、その公定価格の人件費部分にも地域による差が設けられています。
その仕組みの一つが地域加算です。
今回、こども家庭庁が見直そうとしている保育士給与の地域格差を理解するには、この地域加算がなぜ存在し、どのような問題を生んでいるのかを知る必要があります。
地域加算とは何か
保育施設の運営を支える公定価格には、人件費に相当する部分があります。
しかし、全国どこでも同じ人件費を前提にしているわけではありません。
東京など一般的な賃金水準が高い地域と地方では、職員を採用するために必要となる給与水準が異なるからです。
全国一律の人件費を前提にすれば、賃金水準の高い都市部では保育士を確保することが難しくなる可能性があります。
そこで地域ごとの賃金事情を公定価格に反映するため、一定割合を上乗せする仕組みがあります。
地域加算が高い地域では、公定価格の人件費部分も厚くなります。
結果として、保育施設が保育士などへ支払える給与にも影響します。
国家公務員の地域手当が基準になる
保育の地域加算を理解するときに重要なのが、国家公務員の地域手当です。
国家公務員は全国で働いていますが、民間企業の賃金水準は地域によって異なります。
そこで地域の民間賃金などを考慮し、基本となる給与に一定割合を上乗せする地域手当が設けられています。
保育の公定価格における人件費の地域差も、この国家公務員の地域手当に準じた仕組みとなっています。
つまり、保育業界だけで独自に地域ごとの給与水準を決めているわけではありません。
公務員給与で使われている地域区分を、公定価格の計算にも取り入れているわけです。
一見すると合理的な仕組みに見えます。
ところが、ここに大都市圏特有の問題があります。
東京23区では20パーセント上乗せされる
今回の記事で象徴的なのが東京23区と埼玉県南部の違いです。
新しい地域区分をそのまま公定価格に反映した場合、東京23区では20パーセントの上乗せとなります。
一方、荒川を挟んで東京と隣接する埼玉県の川口市や戸田市などでは4パーセントにとどまります。
20パーセントと4パーセントです。
その差は16ポイントあります。
東京から遠く離れた地域との比較ではありません。
川口市や戸田市は東京都心へ通勤する人も多く、東京23区と一体的な生活圏を形成している地域です。
保育士にとっても、東京都内の保育園と埼玉県内の保育園を勤務先として比較することができます。
制度上の境界は荒川ですが、労働市場には同じような境界があるわけではありません。
千葉県との間にも差がある
同じ問題は千葉県側にもあります。
東京23区が20パーセントであるのに対して、江戸川を挟んで東京と接する市川市や浦安市などは8パーセントです。
こちらも12ポイントの差があります。
東京23区と浦安市や市川市は鉄道網によって結ばれ、日常的に多くの人が都県境を越えて移動しています。
住む場所が千葉県でも勤務先が東京都という人は珍しくありません。
保育士も同じです。
自宅から通える範囲に複数の保育施設があれば、給与や勤務条件を比較して職場を選択できます。
ところが、保育施設側が給与の原資としている公定価格には行政区域による大きな差があります。
この違いが人材確保の条件にも影響します。
数パーセントの違いでも経営への影響は大きい
20パーセントと4パーセントという数字を見ると、大きな差だと感じるでしょう。
しかし、保育施設にとっては数パーセントの違いでも重要です。
保育は人件費の比重が大きい事業だからです。
製造業なら設備投資によって作業を自動化し、人件費を減らせる場合があります。
保育ではそう簡単にはいきません。
子どもの安全を確保するためには一定数の保育士を配置する必要があります。
保育士の配置人数を自由に減らして人件費を節約することはできません。
しかも保育施設は、一般企業のように人件費が上がったからサービス価格を自由に値上げすることも難しい仕組みです。
公定価格の数パーセントの違いが、そのまま経営や職員の待遇改善余力に大きく影響することになります。
地域加算が給与格差につながる
2025年の賃金構造基本統計調査では、保育士の平均月収は東京都が31万円、埼玉県が27万2000円、千葉県が30万4000円でした。
もちろん、この給与差がすべて地域加算だけで生じているわけではありません。
自治体独自の支援や施設ごとの経営状況、職員の年齢や経験など、さまざまな要因があります。
ただし、公定価格が施設の主要な運営原資である以上、地域加算の違いは給与水準に影響する重要な要素です。
保育施設が保育士を確保するために給与を上げたくても、収入の基礎となる公定価格が低ければ限界があります。
その結果、隣接地域の間で採用競争の条件そのものに差がつく可能性があります。
行政区域と労働市場がずれている
今回の問題の本質は、東京の加算率が高いこと自体ではありません。
地域によって賃金水準が違う以上、一定の地域差を設けることには合理性があります。
問題は、地域をどのように区切るのかです。
行政制度では都道府県や市区町村という境界が重要になります。
しかし、働く人は行政区域を基準に職場を選んでいるわけではありません。
自宅から何分で通勤できるか。
給与はいくらか。
勤務条件はどうか。
こうした条件を比較します。
鉄道網が発達した東京圏では、都県境を越えることは日常的です。
行政区域では別の地域でも、労働市場では同じ地域になっているのです。
高い加算率の地域へ保育士が移る可能性がある
例えば埼玉県南部に住む保育士が、自宅近くの保育園と東京都内の保育園から求人を見つけたとします。
通勤時間にそれほど大きな差がなく、東京側の給与が高ければ、東京の保育園を選ぶ可能性があります。
一人だけなら大きな問題にはなりません。
しかし、多くの保育士が同じ判断をすればどうなるでしょうか。
東京側には保育士が集まり、埼玉側では採用が難しくなります。
埼玉側の施設も給与を上げようとしますが、公定価格の地域加算が低ければ財源に限界があります。
結果として人材不足がさらに深刻になる可能性があります。
これが地域加算の差によって人材が偏る問題です。
自治体独自の上乗せにも限界がある
こうした格差を埋めるため、自治体が独自に保育士の待遇改善策を設ける場合があります。
市川市など、独自の上乗せを行う自治体もあります。
しかし、自治体独自の対応には大きな問題があります。
自治体によって財政力が違うことです。
税収が豊富な自治体なら独自の支援策を実施できます。
一方、財政に余裕のない自治体では同じ規模の支援は難しくなります。
すると今度は国の地域加算だけでなく、自治体の財政力によって保育士の待遇に差が生じます。
保育士を確保するために自治体同士が上乗せ競争を続けるだけでは、根本的な解決にならない可能性があります。
生活圏を考慮した新しい補正へ
そこで、こども家庭庁が検討しているのが新たな補正策です。
生活圏や経済圏が一体となっている地域について、周辺の高い加算率を考慮して低い地域の加算を厚くする考え方です。
特に大都市への通勤率が高い周辺自治体について、加算率を引き上げることが検討されています。
埼玉県南部などが代表例です。
これは非常に重要な制度変更です。
これまでのように行政区域だけを見るのではなく、人が実際にどこへ通勤しているのかという労働市場の実態を制度に取り込もうとしているからです。
2027年4月からの適用が目指されています。
地域加算は保育サービスそのものにも影響する
地域加算の問題は、保育士だけの問題ではありません。
最終的には子育て世帯にも影響します。
住宅価格や家賃の上昇によって、子育て世帯が都市中心部から周辺地域へ移住する動きがあります。
周辺地域では子どもが増え、保育需要が高まる可能性があります。
ところが保育士は反対方向に、給与の高い都市中心部へ通勤するかもしれません。
子どもは郊外へ移る。
保育士は中心部へ移る。
この二つが同時に進めば、保育需要と保育人材の所在地がずれてしまいます。
施設があっても保育士を確保できなければ、十分な人数の子どもを受け入れることができません。
その意味では、地域加算の見直しは待機児童対策や子育て環境の整備にもつながる問題です。
結論
保育士の地域加算とは、地域ごとの賃金水準などを公定価格の人件費に反映させるための仕組みです。
国家公務員の地域手当に準じた考え方が使われています。
しかし、大都市圏では行政区域と実際の労働市場が一致していません。
新たな区分をそのまま適用すると東京23区では20パーセントの上乗せとなる一方、隣接する埼玉県の川口市や戸田市などでは4パーセント、千葉県の市川市や浦安市などでは8パーセントとなります。
都県境を越えて簡単に通勤できるにもかかわらず、保育施設が受け取る人件費の基礎には大きな差が生じるわけです。
その結果、保育士が待遇の良い地域へ移動し、周辺自治体の人材不足を深刻にする可能性があります。
地域加算の問題は、単純な東京と地方の給与格差ではありません。
行政区域でつくられた制度と、県境を越えて動く現実の労働市場とのずれです。
こども家庭庁が生活圏や通勤圏を考慮した新しい補正を検討しているのは、このずれを小さくするためなのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月1日朝刊 こども家庭庁、保育士給与の地域差是正