企業の買収や事業再編が活発になるなか、「のれん」の会計処理が改めて注目されています。スタートアップの成長を後押しするため、のれんの定期償却を廃止すべきだという意見もありましたが、日本では現行の償却ルールが維持される見通しとなりました。
一見すると、企業の成長を支えるために会計ルールを変えることは合理的にも思えます。しかし、今回の議論は「会計基準とは何のために存在するのか」という根本的な問題を改めて考えさせる出来事でもあります。
今回は、のれん償却を巡る議論を通して、会計基準の本来の役割について分かりやすく解説します。
会計基準は企業の実態を伝えるためのルール
会計基準は、企業の経営成績や財政状態を投資家や金融機関などへ正確に伝えるための共通ルールです。
もし企業ごとに自由なルールで利益を計算できれば、企業同士を比較することはできません。投資家も適切な判断ができず、資本市場の信頼性は大きく損なわれてしまいます。
つまり、会計基準は企業活動を促進するための政策ではなく、「企業の姿を正しく映し出す物差し」として存在しています。
のれんとは何か
企業を買収すると、買収価格が相手企業の純資産を上回ることがあります。
この差額が「のれん」です。
この差額には、ブランド力や技術力、人材、顧客基盤など、財務諸表には十分に表れない価値への期待が含まれています。
言い換えれば、将来生み出す利益への期待に対して支払ったプレミアムと考えることができます。
なぜ日本は償却を続けるのか
日本基準では、この期待価値は永続するものではないという考え方を採っています。
企業を取り巻く環境は常に変化します。
技術革新や競争環境の変化によって、買収当時に期待した価値が少しずつ失われることも珍しくありません。
そのため、日本では一定期間にわたり毎年少しずつ費用として計上し、価値の減少を利益に反映させています。
この考え方は非常に保守的ですが、利益を過大に見せないという点で投資家保護にもつながっています。
非償却にはどのような課題があるのか
一方、国際会計基準や米国会計基準では、原則として定期償却は行わず、価値が大きく下落した場合だけ減損処理を行います。
この方法には利益が安定するというメリットがあります。
しかし問題もあります。
減損は経営者の判断が大きく影響するため、損失計上が遅れる可能性があります。
業績悪化が進んでから一度に大きな損失を計上するケースもあり、「問題が見えるのが遅すぎる」という批判も以前からあります。
結果として、企業価値を実際より高く見せてしまう可能性も否定できません。
M&A促進と会計基準は分けて考えるべき
今回、償却見直しを求める意見の背景には、M&Aを活発化させ、スタートアップの成長を後押ししたいという政策的な目的がありました。
確かに、償却がなくなれば利益は大きく見えやすくなり、買収のハードルが下がるという考え方には一定の理解もできます。
しかし、そのために会計基準そのものを変えてしまえば、本来の役割が曖昧になります。
会計は企業の実態を正確に伝えることが使命です。
産業振興や企業支援を行うのであれば、税制や補助金、資金調達制度など別の政策手段で対応するほうが、本来の役割分担として自然だといえるでしょう。
国際基準も非償却が絶対ではない
国際会計基準や米国基準が非償却を採用しているからといって、それが理論的に最も優れているという意味ではありません。
実際には過去に償却へ戻す議論も行われました。
最終的に非償却を維持した背景には、制度変更に伴う企業の負担や実務コストなども大きく影響しています。
つまり、世界的にも「どちらが絶対に正しい」という結論が出ているわけではないのです。
会計は市場の信頼を支えるインフラ
企業活動を支える制度には、それぞれ異なる役割があります。
会計基準は市場参加者へ正確な情報を提供すること。
税制は経済政策を支えること。
金融政策は資金の流れを調整すること。
それぞれの役割を混同すると、制度そのものへの信頼が揺らぐ可能性があります。
今回の議論は、会計基準が経済政策のために存在するのではなく、市場全体の信頼を支える社会インフラであることを改めて示した出来事だったといえるでしょう。
結論
のれん償却を巡る議論は、単なる会計処理の問題ではありません。
企業成長を後押ししたいという政策目的は重要ですが、そのために会計基準を変更することが適切とは限りません。
会計基準は企業の実態を公平に伝えるための共通ルールであり、投資家が安心して企業を評価できる市場の基盤です。
経済政策と会計基準は、それぞれ異なる役割を持っています。その役割を明確に分けて考えることこそ、健全な資本市場を維持するために欠かせない視点ではないでしょうか。
参考
日本経済新聞 2026年7月23日 朝刊
のれん償却ルール維持 見直し議論は本末転倒 会計基準、政策手段にあらず