政府が企業の投資を後押しすれば、日本経済は成長し、賃金も上がるのでしょうか。
2026年に公表された「経済財政運営と改革の基本方針2026」では、AIや半導体などの戦略分野への大規模な投資が成長政策の柱となっています。
しかし重要なのは、単純に投資額を増やすことではありません。
工場や機械だけではなく、ソフトウエア、研究開発、人材育成、組織改革といった「無形資産」にどれだけ投資できるかが、今後の日本企業の生産性や賃金を左右する可能性があります。
一方で、政府による巨額の支援には財政負担や市場競争をゆがめるリスクもあります。
今回は、骨太の方針2026を手がかりに、無形資産投資と実質賃金の関係について整理します。
日本企業の設備投資は増えている
日本企業は投資をしていないといわれることがあります。
しかし設備投資をGDPに対する比率で見ると、2010年以降は上昇傾向にあります。
背景の一つがソフトウエア投資です。
企業のデジタル化が進み、業務システムやクラウド、AIなどへの投資が増えてきました。
かつての設備投資といえば、工場、機械、建物などの有形資産が中心でした。
現在は企業が競争力を高めるための投資対象そのものが変化しています。
企業価値を生み出す源泉が、目に見える設備から、技術やデータ、人材などへ広がっているのです。
無形資産とは何か
無形資産とは、物理的な形を持たないものの、将来の収益や生産性を高めるために利用される資産です。
代表的なものとして、ソフトウエア、研究開発、データ、特許や知的財産、人材育成、従業員教育、ブランド、組織改革などがあります。
例えば社員にAIを使うための教育を行った場合、工場のような設備が残るわけではありません。
しかし社員の能力が高まり、仕事の効率が改善すれば、企業の生産性は高まります。
こうした投資も企業の将来の収益力を高めるという意味では重要な投資です。
問題は、日本ではこの無形資産への投資が十分ではないことです。
日本は人的資本への投資が少ない
日本の無形資産投資のGDP比は、米国やドイツと比較して低い水準にあります。
特に目立つのが、人的資本への投資や組織改革への投資の少なさです。
設備だけ最新にしても、それを使う人の能力や組織の仕組みが変わらなければ、生産性は十分に高まりません。
例えば最新のAIシステムを導入しても、社員が使いこなせなければ効果は限定的です。
業務プロセス自体が従来のままであれば、AIを導入しただけで仕事が大幅に効率化するとは限りません。
デジタル投資と人的資本投資、さらに組織改革を組み合わせることが重要になります。
無形資産投資はなぜ賃金を上げるのか
無形資産投資が注目される理由は、生産性だけでなく賃金にも影響する可能性があるからです。
賃金を持続的に上げるためには、基本的には労働者1人当たりが生み出す付加価値を増やす必要があります。
つまり労働生産性を高める必要があります。
例えばAIを利用して、これまで10時間かかっていた仕事を5時間でできるようになれば、同じ人数でもより多くの付加価値を生み出せる可能性があります。
企業の利益が増えれば、賃上げの原資も生まれます。
無形資産投資には、この生産性向上を通じて賃金を引き上げる経路があります。
賃金交渉力も変わる可能性がある
もう一つ重要なのが労働者の賃金交渉力です。
無形資産投資によって専門的な能力を持つ人材への需要が高まれば、その人材の市場価値も上昇します。
例えば企業がAIを導入したくても、AIを扱える社員がほとんどいなければどうなるでしょうか。
企業は必要な人材を確保するため、高い賃金を提示する必要があります。
他社も同じ人材を欲しがれば、人材獲得競争が起こります。
結果として、生産性の上昇だけでは説明できないほど賃金が上昇する可能性があります。
つまり無形資産投資には、生産性を高めるだけでなく、労働者の市場価値を高めることで賃金を押し上げる経路もあるわけです。
政府は17の戦略分野へ投資を促す
骨太の方針2026では、AIや半導体など17の戦略分野を選び、2040年度までに官民合わせて累計370兆円を超える投資を計画しています。
政府が投資を支援する理由の一つに、投資による波及効果があります。
例えばある企業がAI技術を開発すると、その技術を利用する別の企業の生産性も高まる可能性があります。
データセンターや通信インフラが整備されれば、多くの企業がその恩恵を受けられます。
一企業だけでは社会全体への波及効果まで考えて十分な投資をしない可能性があります。
そこで政府が補助金や税制などを通じて投資を後押しすることには一定の経済的な理由があります。
国内投資の増加が賃金を押し上げる可能性もある
企業が海外ではなく国内に投資することも労働市場に影響します。
企業が海外へ生産拠点を移せる場合、国内労働者に対する企業側の交渉力が強くなる可能性があります。
逆に政府の支援などによって国内に工場や研究開発拠点が増えれば、国内で必要とされる労働者も増えます。
人手不足が強まれば、企業は賃金を上げなければ人材を確保できません。
国内投資の拡大は、生産性だけでなく労働需給を通じても賃金を押し上げる可能性があります。
経済安全保障投資にはコストもある
ただし、すべての投資が短期的な経済成長につながるわけではありません。
政府が支援する戦略分野には、成長投資だけでなく経済安全保障を目的とした投資も含まれます。
例えば重要な製品を海外から安く輸入できるとしても、経済安全保障上の理由から国内生産を増やすことがあります。
供給網が途絶えた場合に備えるという意味では重要です。
しかし国内生産のコストが海外より高ければ、製品価格が上昇する可能性があります。
物価が上がれば、名目賃金が増えても実質賃金が伸びないことがあります。
安全保障と経済効率のバランスを考える必要があります。
補助金を続けると企業の新陳代謝を妨げる
政府支援には別の問題もあります。
補助金や税制優遇を長期間続けると、本来なら市場から退出する企業まで存続する可能性があります。
その結果、新しい企業が参入しにくくなることがあります。
成長戦略では、既存企業を守ることと、新しい企業を育てることは同じではありません。
むしろ生産性の低い企業から高い企業へ、人材や資金が移動することが経済全体の生産性向上につながります。
政府が特定企業を長期間支援するのではなく、競争が働く仕組みを作ることが重要です。
最大の問題は財政負担
さらに大きな問題が財政です。
成長戦略を実現するためには巨額の政府支出が必要になる可能性があります。
財政支出を国債発行に大きく依存すれば、財政悪化への懸念から長期金利が上昇することがあります。
長期金利が上がれば企業の資金調達コストも上昇します。
政府が投資を促すために支出を増やした結果、金利上昇によって民間企業の投資が減るのであれば政策効果は弱まります。
さらに円安が進めば輸入物価が上昇し、家計の実質所得を押し下げる可能性があります。
成長戦略を進めるのであれば、支出額だけでなく、その財源を明確にすることが重要です。
最低賃金1500円だけでは実質所得は増えない
骨太の方針では、遅くとも2030年代前半のできる限り早い時期に、最低賃金の全国平均1500円を達成する方針も示されています。
最低賃金の引き上げは低所得者の所得改善につながる可能性があります。
しかし企業の生産性以上のペースで人件費だけが上昇すれば、企業は採用を減らしたり、労働時間を減らしたりする可能性があります。
企業が人件費増加分を販売価格に転嫁すれば物価も上昇します。
名目賃金が増えても、それ以上に物価が上がれば実質賃金は増えません。
重要なのは最低賃金という数字だけを引き上げることではなく、企業の生産性を同時に高めることです。
年収の壁の見直しも必要になる
さらに最低賃金を引き上げるほど、「年収の壁」の問題も重要になります。
時給が上がっても、税金や社会保険料の負担を意識して労働時間を減らせば、労働供給は十分に増えません。
企業側から見ると、時給を上げても働いてもらえる時間が短くなる可能性があります。
人手不足の日本では、これは大きな問題です。
賃上げ政策と税制、社会保障制度、労働供給政策を別々に考えるのではなく、一体的に見直す必要があります。
無形資産投資は日本経済の重要なテーマになる
これまで日本の成長政策では、工場や設備など目に見える投資が注目されがちでした。
しかしAI時代には、競争力を左右する資産が変わっています。
ソフトウエア、研究開発、データ、社員教育、専門人材、組織改革など、目に見えない資産への投資が企業の生産性を大きく左右します。
そして無形資産投資が増えれば、専門人材への需要が高まり、労働者の賃金交渉力が強まる可能性もあります。
単なる賃上げ要請ではなく、企業が高い賃金を払ってでも人材を確保したい状況を作ることが重要なのです。
結論
骨太の方針2026では、AIや半導体など17の戦略分野を中心として、2040年度までに官民合わせて累計370兆円を超える投資が計画されています。
こうした投資が実質賃金の持続的な上昇につながるかどうかを考えるうえで重要なのが、無形資産投資です。
ソフトウエア、研究開発、人材育成、組織改革などへの投資は、企業の生産性を高めるだけでなく、専門人材への需要を増やし、労働者の賃金交渉力を高める可能性があります。
一方、政府支援を広げすぎれば、経済安全保障によるコスト増、市場競争のゆがみ、巨額の財政負担、長期金利上昇などの副作用も生じます。
大切なのは政府支出そのものを増やすことではありません。
成長力や生産性を本当に高める分野へ対象を絞り、政策効果を検証しながら支援策を見直していくことです。
持続的な賃上げとは、政府が企業に賃上げを求め続けることで実現するものではありません。
企業が人材や技術へ投資し、生産性が高まり、高い賃金を払ってでも優秀な人材を確保したいと考える経済を作れるかどうか。
無形資産への投資を増やせるかどうかが、日本の実質賃金を持続的に引き上げるための重要な鍵になりそうです。
参考
日本経済新聞 2026年8月26日 朝刊 点検・骨太2026(下) 無形資産投資で賃上げを