上場会社に突然、買収提案が届いたとします。
しかも、その会社の経営陣が望んでいたM&Aではありません。
以前の日本企業であれば、経営陣が反対していること自体が買収を断念する大きな理由になりました。
しかし現在は、経営陣が気に入らないという理由だけで買収提案を退けることは難しくなっています。
大きな転換点となったのが、経済産業省が2023年に策定した企業買収における行動指針です。
この指針によって、同意なき買収を含む企業買収について、企業価値や株主利益を基準に検討する考え方が明確になりました。
企業買収における行動指針とは何か
企業買収における行動指針とは、上場会社の経営支配権を取得する買収について、買収者や対象会社の取締役会などがどのように行動すべきかを示したものです。
経済産業省が2023年8月に策定しました。
法律そのものではありません。
しかし日本のM&Aにおいて、公正な買収を実現するための重要な行動規範として位置付けられています。
指針では企業買収について重要な三つの原則を示しています。
企業価値と株主共同の利益の原則
株主意思の原則
透明性の原則
企業買収を考えるときには、経営陣が買収に賛成しているか反対しているかだけではなく、企業価値や株主利益、株主自身の判断、十分な情報開示を重視するという考え方です。
なぜ経済産業省は指針を作ったのか
日本では長い間、経営陣同士が事前に合意してから進める友好的なM&Aが中心でした。
対象会社の経営陣が反対する買収は敵対的買収と呼ばれ、否定的な印象を持たれることも少なくありませんでした。
しかし、この考え方には問題があります。
経営陣が反対していることと、その買収が会社や株主にとって悪いことは同じではないからです。
たとえば市場株価が2000円の会社に、別の企業が3000円で買収を提案したとします。
対象会社の経営陣は反対するかもしれません。
しかし株主にとっては、市場価格より50パーセント高い価格で株式を売却できる可能性があります。
さらに買収後の経営改革によって企業価値が高まる可能性もあります。
経営陣が反対しているという理由だけで、その提案を株主が検討する機会まで失わせてよいのかという問題が生じます。
そこで、買収者と対象会社の双方に一定の行動規範を示し、望ましい企業買収を促す必要が高まったのです。
企業価値とは何か
行動指針を理解するうえで重要な言葉が企業価値です。
企業価値とは、会社が将来にわたって生み出す価値を総合的に捉える考え方です。
会社には工場、店舗、現金、不動産などの目に見える資産だけがあるわけではありません。
技術力があります。
ブランドがあります。
従業員のノウハウがあります。
取引先との関係があります。
顧客基盤があります。
将来生み出す利益があります。
こうしたものを含めて会社の価値を考えます。
企業買収が行われるときには、単に現在の株価より高い価格が提示されたかどうかだけでなく、買収によって中長期的な企業価値が高まるのかという視点も重要になります。
企業価値と株主利益はどう関係するのか
企業価値が高まれば、最終的には株主が保有する株式の価値にも反映されることが期待されます。
そのため行動指針では、企業価値の向上と株主共同の利益を重要な判断軸としています。
ここで重要なのが株主共同の利益という考え方です。
特定の大株主だけが有利になればよいという意味ではありません。
会社の価値向上によって、株主全体が利益を受けられることが重要になります。
買収価格が十分なのか。
買収者の経営計画に合理性があるのか。
現在の経営陣が経営を続けた場合と比べて、どちらが企業価値を高められるのか。
取締役会はこうした点を検討する必要があります。
単に、
私たちは買収されたくない
という理由だけでは十分ではありません。
株主意思の原則とは何か
行動指針では株主意思も重視されています。
株式会社を所有しているのは株主だからです。
買収者がTOBを実施すれば、それに応募するかどうかは原則として株主が判断します。
たとえば現在の株価が2000円で、3000円のTOBが行われたとします。
現在の経営陣は、
この会社にはもっと価値がある
として反対するかもしれません。
それでも株主の中には、
3000円なら十分なので売却したい
と考える人がいるでしょう。
反対に、
将来5000円になる可能性があるので売りたくない
と判断する株主もいるでしょう。
重要なのは、必要な情報が提供されたうえで、株主が自分で判断できることです。
買収する側だけでなく、対象会社の経営陣だけでも会社の将来を決めないという考え方です。
真摯な買収提案はどう扱うのか
企業買収における行動指針の中でも特に重要なのが、真摯な買収提案への対応です。
取締役会に経営支配権を取得する旨の買収提案が届いた場合、取締役会は提案が具体性、目的の正当性、実現可能性のある真摯な買収提案であるかを検討します。
真摯な買収提案であれば、経営陣の好みだけで簡単に拒絶するのではなく、真剣に検討することが求められます。
買収価格はいくらなのか。
その価格には合理的な根拠があるのか。
買収資金を本当に用意できるのか。
買収後にどのような経営を行うのか。
企業価値をどのように高めるのか。
買収が実際に実行される可能性はどの程度あるのか。
こうした内容を具体的に検討する必要があります。
経営者の保身との線引きが重要になる
同意なき買収で常に問題になるのが、経営者自身の利益です。
会社が買収されれば、現在の経営陣が交代する可能性があります。
そのため経営者には、
買収されたくない
という個人的な動機が生じることがあります。
しかし経営者の地位を守ることと、企業価値を守ることは同じではありません。
もし現在の経営を続けるより、買収者による経営改革の方が企業価値を高める可能性があるのであれば、株主にその選択肢を提示する意味があります。
だからこそ取締役会には、経営者自身の利益と会社や株主の利益を分けて考えることが求められます。
同意なき買収が増えることは、買収者だけでなく、現在の経営陣にも企業価値を高め続ける緊張感を与えることになります。
同意なき買収が企業経営に与える影響
同意なき買収が現実的な選択肢になると、上場会社の経営者にとってM&Aは他人事ではなくなります。
株価が長期間低迷している。
多額の現預金を持ちながら有効活用できていない。
収益性の低い事業を抱えている。
優れた技術やブランドがあるのに利益につなげられていない。
こうした会社は、別の企業から見れば経営を変えることで価値を高められる買収候補になる可能性があります。
経営陣が反対すれば必ず会社を守れるのであれば、この圧力はそれほど強くありません。
しかし株主に直接買収提案を示せるのであれば状況は変わります。
現在の経営陣自身が、
自分たちが経営を続けることが本当に企業価値を最大化するのか
を常に問われることになります。
企業買収における行動指針は、単なるM&Aのルールではなく、上場会社の経営規律にも関係しているのです。
結論
企業買収における行動指針とは、上場会社の経営支配権を取得する買収について、買収者や対象会社の取締役会などに求められる考え方や行動を示したものです。
重要なのは、企業価値と株主共同の利益、株主意思、透明性という考え方です。
対象会社の経営陣が反対しているという理由だけで、買収提案そのものを悪いものと判断する考え方から変化しています。
真摯な買収提案であれば、取締役会は買収価格や実現可能性、買収後の経営方針、企業価値への影響などを具体的に検討することが求められます。
経営者にとっては厳しい時代ともいえます。
会社を守る最も強力な方法は、買収防衛策を作ることだけではありません。
現在の経営陣が経営を続けることこそ株主にとって最も価値があると思われる会社をつくることです。
同意なき買収が現実的な選択肢になることは、日本企業に企業価値を高め続ける経営を求める仕組みでもあるのです。
参考
日本経済新聞 2026年8月24日朝刊 農耕民族のM&A 及び腰の同意なき買収