保育士不足に悩む自治体が、独自に給与を上乗せして待遇を改善する。
その自治体だけを見れば、合理的な政策です。
給与が高くなれば保育士を採用しやすくなり、すでに働いている保育士の離職を防ぐ効果も期待できます。
しかし、隣の自治体から見ると事情が変わります。
保育士は市区町村や都道府県の境界を越えて自由に勤務先を選べるため、待遇の良い自治体へ人材が移る可能性があるからです。
すると今度は人材を失った自治体も待遇改善を迫られます。
このように、限られた保育士を自治体同士が待遇によって取り合う状態が自治体間の保育士獲得競争です。
保育士という限られた人材を取り合う
保育サービスを増やすには、施設だけでなく保育士が必要です。
子どもの人数や年齢などに応じて必要な職員を配置しなければならないため、保育士を確保できなければ受け入れ人数にも限界が生じます。
そのため自治体にとって、保育士の確保は重要な子育て政策になります。
問題は、保育士を短期間で大量に増やすことが難しいことです。
保育士として働くためには資格が必要です。
自治体が予算を増やしたからといって、翌日から保育士の総数が大幅に増えるわけではありません。
そこで各自治体は、すでに存在する保育士を自分の地域で働いてもらうために競争することになります。
保育士は勤務先の自治体に縛られない
自治体間競争が起こる最大の理由は、保育士の労働市場と行政区域が一致していないことです。
例えば埼玉県川口市に住む保育士が、川口市内の保育園だけで働かなければならないわけではありません。
東京都内へ通勤することもできます。
千葉県市川市に住んでいる保育士も、市川市内だけでなく東京23区の保育園を勤務先として選択できます。
保育士が職場を選ぶときには、
給与
勤務時間
休日
通勤時間
職場環境
福利厚生
などを比較します。
行政区域は数ある条件の一つにすぎません。
そのため隣接自治体の待遇改善は、自分の自治体の保育士確保にも直接影響します。
隣の市が給与を上げると何が起きるのか
分かりやすく二つの自治体で考えてみます。
自治体Aと自治体Bは隣接しており、簡単に通勤できるとします。
両地域の保育士給与がほぼ同じなら、保育士は通勤時間や職場環境などを考えて勤務先を選ぶでしょう。
ところが自治体Aが独自の処遇改善策を導入し、保育士の待遇を大きく改善したとします。
すると自治体Bに住む保育士にとっても、Aの保育園が魅力的な勤務先になります。
Bの保育園からAの保育園へ転職する人が出るかもしれません。
Aでは保育士不足が改善します。
しかしBでは保育士不足が悪化します。
保育士の総数が増えたのではなく、所在地が変わっただけだからです。
人材を失った自治体も対抗する
自治体Bも何もしないわけにはいきません。
保育士不足によって保育園の受け入れ人数が減れば、子育て世帯に影響します。
そこでBも独自の処遇改善策を始める可能性があります。
Aが給与を上乗せする。
Bも上乗せする。
さらに別の自治体Cも人材流出を防ぐために上乗せする。
このように周辺自治体へ政策が波及していきます。
保育士の待遇は改善しますが、地域全体の保育士数が増えない限り、人材不足そのものが解消されるとは限りません。
限られた人材を、自治体同士がより良い条件を提示して取り合う構造になります。
公定価格の地域差が競争の出発点になる
保育士獲得競争を考えるときに重要なのが公定価格です。
認可保育所などは、公定価格を基礎とした公的な仕組みによって運営されています。
公定価格の人件費部分には地域による加算があります。
今回問題となっているのは、この加算率が実際の生活圏や通勤圏と必ずしも一致していないことです。
新たな区分をそのまま適用すると、東京23区は20パーセントの上乗せとなります。
一方、隣接する埼玉県の川口市や戸田市などは4パーセント、千葉県の市川市や浦安市などは8パーセントです。
働く人は簡単に都県境を越えられるのに、保育施設の人件費を支える制度には大きな差があります。
この制度上の差が、人材獲得競争の条件にも影響します。
自治体独自加算は公定価格の差を埋める役割もある
公定価格だけでは周辺地域との待遇差が大きくなる場合、自治体が独自財源を投入することがあります。
例えば保育士への手当などを充実させ、実際に受け取る給与を引き上げます。
これは公定価格によって生じる不利を自治体自身が補う政策ともいえます。
しかし、本来国の制度によって生じている大きな差を、自治体が自分の財源で埋め続けることには限界があります。
自治体によって財政力が違うからです。
財政力の強い自治体ほど有利になる
仮に自治体Aには豊富な税収があり、自治体Bには財政的な余裕が少ないとします。
Aなら毎年大きな予算を使って保育士の処遇改善を続けられるかもしれません。
Bは同じ政策を実施したくても、財源を確保できない可能性があります。
すると保育士獲得競争ではAが有利になります。
給与差が広がればBからAへさらに人材が移り、Bの保育士不足が深刻になります。
自治体の財政力の差が、保育人材を確保する力の差につながるわけです。
最終的には、住んでいる自治体によって保育サービスの供給状況にも差が生じる可能性があります。
給与以外の競争も起こる
自治体間の人材獲得競争は、給与だけとは限りません。
保育士向けの住宅支援や研修制度など、さまざまな方法で働きやすさを高めることが考えられます。
保育施設側も勤務時間や休暇制度、業務負担の軽減などを工夫します。
給与だけを際限なく引き上げるのではなく、働き続けやすい環境を整えることは重要です。
一方で、こうした支援策にも財源が必要になる場合があります。
やはり自治体の財政力による違いが生じる可能性があります。
自治体間競争には良い面もある
自治体間競争がすべて悪いわけではありません。
人材を確保するために各自治体が待遇を改善すれば、長く低いと指摘されてきた保育士の処遇改善につながる可能性があります。
職場環境の改善競争が進めば、保育士が働き続けやすくなることも期待できます。
自治体が地域の事情に合わせて政策を工夫すること自体にも意味があります。
問題になるのは、競争によって保育士の総数が増えず、単に隣の自治体から人材を移動させるだけになった場合です。
地域全体で見れば人材不足が解決していないからです。
子育て世帯の移動が競争をさらに複雑にする
大都市圏では、住宅価格や家賃の上昇によって子育て世帯が中心都市から周辺自治体へ移る可能性があります。
例えば東京都内で働きながら、住宅を埼玉県や千葉県に購入するケースです。
すると周辺自治体では保育需要が増えます。
しかし保育士は反対に、より高い待遇を求めて東京都内へ通勤することができます。
子どもは周辺自治体に増える。
保育士は中心都市へ移る。
こうした動きが起これば、周辺自治体はさらに保育士確保策を強化しなければなりません。
自治体間競争だけでは解決しにくい構造的な問題になります。
国が地域全体を調整する必要がある
自治体は基本的に自分の住民のために政策を実施します。
そのため保育士不足が起きれば、独自に待遇を改善して人材を確保しようとするのは自然です。
しかし、保育士の労働市場が複数の自治体にまたがっている場合、一つの自治体だけで問題を解決することは難しくなります。
そこで国による調整が重要になります。
こども家庭庁は、生活圏や経済圏が一体となっている地域について、公定価格の地域差を縮小する新しい仕組みを検討しています。
大都市への通勤率が高い周辺自治体の加算率を引き上げることなどが検討されています。
国の制度による大きな格差を小さくすれば、自治体が独自財源を使って差を埋める必要も小さくできます。
人材を奪い合う政策から地域全体で確保する政策へ
保育士不足を長期的に解決するには、自治体同士で人材を移動させるだけでは不十分です。
新たに保育士として働く人を増やす。
資格を持ちながら保育現場で働いていない人の復職を促す。
離職を減らす。
業務負担を軽減する。
こうした政策によって、実際に働く保育士そのものを増やす必要があります。
そのうえで、特定の地域だけに人材が極端に偏らないよう制度を整えることが重要になります。
自治体単位の人材獲得競争と、国や広域圏による人材確保政策を組み合わせる必要があるのです。
結論
自治体間の保育士獲得競争とは、保育士不足に対応するため、自治体が給与への独自上乗せなどによって人材を確保しようとすることで生じる競争です。
保育士は行政区域に縛られず、県境や市境を越えて勤務先を選べます。
そのため隣の自治体が待遇を改善すれば、自分の自治体から保育士が流出する可能性があります。
人材を失った自治体も待遇を改善すれば、さらに別の自治体へ競争が広がります。
この競争によって保育士の待遇が改善することには意味があります。
しかし、保育士の総数が増えなければ、地域全体では人材の所在地が変わっただけという場合もあります。
さらに自治体ごとの財政力が違うため、財政力の弱い自治体ほど人材獲得競争で不利になる可能性があります。
だからこそ、実際には一つの通勤圏となっている地域については、自治体同士の競争だけに任せるのではなく、国が公定価格などを通じて条件を調整する必要があります。
保育士不足を解決するために必要なのは、隣の自治体から保育士を奪うことではありません。
地域全体で保育士を確保し、必要な場所に人材が定着できる仕組みをつくることなのです。
参考
日本経済新聞 2026年9月1日朝刊 こども家庭庁、保育士給与の地域差是正