中小企業の事業承継税制に、新しい考え方が加わる可能性があります。
経済産業省は、事業承継した後継者の相続税や贈与税について、成長投資や賃上げに取り組む企業を対象に免税とする仕組みを検討しています。
これまでの事業承継税制では、非上場株式を引き継いだ後継者について、一定の要件のもとで相続税や贈与税の納税を猶予し、後継者の死亡など一定の場合に免除する仕組みが中心でした。
新しい制度では、税負担を確定的に軽減する代わりに、そのメリットを会社の成長や従業員の給与へ還元するという考え方が強くなります。
その中心となる可能性があるのが「賃上げ要件」です。
なぜ相続税の免税に賃上げを求めるのか
一見すると、相続税と従業員の賃金は別の問題に見えます。
相続税は経営者が亡くなったときに発生する税金です。
贈与税は先代経営者から後継者へ生前に財産を渡した場合に問題となります。
これに対して賃上げは会社と従業員の問題です。
それでも両者を組み合わせようとしているのは、事業承継税制を単なる相続税対策にしないためです。
例えば、事業承継によって5000万円の相続税負担が軽減されたとします。
そのメリットが後継者一族だけに残れば、税制による支援の経済効果は限定的です。
一方、税負担の軽減によって生まれた資金的な余裕を設備投資や賃上げに振り向ければ、会社の生産性向上や従業員の所得増加につながります。
税負担を軽減する代わりに、企業にも成長や賃上げを求めるという考え方です。
賃上げ促進税制とは目的が違う
賃上げと税金を組み合わせる制度として、すでに賃上げ促進税制があります。
ただし、今回検討されている事業承継税制の賃上げ要件とは仕組みが異なります。
賃上げ促進税制では、企業が一定以上給与を増やした場合、増加した給与額などを基礎として一定額を法人税などから税額控除します。
つまり、会社が支払う法人税を軽減する制度です。
これに対して事業承継税制で問題になるのは、後継者が自社株を取得したときの相続税や贈与税です。
税金を負担する主体も、税金が発生する原因も異なります。
ただし政策的には共通点があります。
どちらも、
企業が賃上げする
税負担を軽減する
という組み合わせによって、中小企業の賃金上昇を促そうとするものです。
給与総額で判定する方法が考えられる
今後大きな論点になるのが、「賃上げ」をどのように判定するのかです。
一つの方法として考えられるのが給与総額です。
例えば、ある会社が前年に従業員へ合計1億円の給与を支払っていたとします。
翌年の給与総額が1億500万円になれば、給与総額は5%増えたことになります。
このように会社全体の給与支給額を比較すれば、比較的分かりやすく賃上げを判定できます。
一方で、給与総額には従業員数の増減が影響します。
従業員を10人増やせば、一人当たりの給与を引き上げなくても給与総額は増える可能性があります。
反対に、一人一人の給与を大幅に引き上げても、退職者が多ければ給与総額が減る場合があります。
そのため、単純な給与総額だけで賃上げを判断することには難しい面があります。
一人当たりの給与を見る方法もある
もう一つ考えられるのが、一人当たり給与の増加を見る方法です。
例えば、従業員100人で年間給与総額が4億円なら、単純平均では一人当たり400万円です。
翌年に従業員数が90人へ減っても、一人当たり給与が440万円になっていれば、一人当たりでは10%の増加です。
この企業を「賃上げしていない」と判断するのは適切ではないかもしれません。
特に現在は人手不足が深刻です。
従業員数を増やすのではなく、DXや設備投資によって生産性を高め、少ない人数に高い給与を支払う企業もあります。
今後の事業承継税制では、単純な雇用人数だけではなく、従業員一人当たりの賃金や給与総額などをどのように評価するのかが重要になります。
何年間賃上げを続けるのかも問題になる
賃上げ要件を設ける場合、もう一つ難しい問題があります。
賃上げを何年間続ければよいのかという問題です。
事業承継した年だけ給与を増やせば相続税が免除されるのであれば、一時的な賃上げによって制度を利用する企業が出てくる可能性があります。
一方、10年や20年といった非常に長い期間にわたって一定の賃上げを義務付ければ、企業にとって利用しにくい制度になります。
中小企業の業績は毎年変動します。
原材料価格が上昇することもあります。
主要取引先を失うこともあります。
景気後退によって売上が減る場合もあります。
そうした状況でも一定の賃上げを続けなければ免税を受けられないとなれば、後継者にとって新たなリスクになります。
免税によって将来の税負担への不安をなくす制度なのに、賃上げ要件によって別の不確実性が生まれては制度の目的と矛盾します。
中小企業には賃上げ余力の差がある
中小企業といっても経営状況はさまざまです。
高い利益率を持つ会社もあれば、薄い利益率で事業を続けている会社もあります。
製造業とサービス業でも人件費の構造は違います。
都市部と地方でも採用環境や賃金水準は異なります。
そのため、すべての中小企業に同じ賃上げ率を求めると、制度を利用できる企業と利用できない企業の差が大きくなる可能性があります。
例えば毎年一定割合以上の賃上げを一律に求めれば、成長企業には達成できても、成熟した地域企業には難しい場合があります。
事業をきちんと継続し、地域の雇用を守っている企業まで事業承継税制を利用できなくなれば、本来の制度目的から外れる可能性があります。
税金が浮いた分をそのまま給与に回すわけではない
「相続税を免除する代わりに賃上げする」と聞くと、免除された税額と同額を従業員の給与に回す仕組みのように感じるかもしれません。
しかし、必ずしもそのような単純な関係になるとは限りません。
相続税や贈与税は基本的に後継者個人に関係する税金です。
一方、給与を支払うのは会社です。
後継者個人の税負担が5000万円減ったから、会社が5000万円の給与を増やすという直接的な関係ではありません。
重要なのは、事業承継に伴う税負担を軽減することで、後継者が会社の資金を納税対策のために動かす必要性を小さくし、会社の成長に集中しやすくすることです。
そのうえで、会社として一定の賃上げを実現した企業を優遇するという制度設計が考えられます。
賃上げと成長投資を組み合わせる意味
今回の検討では、賃上げだけでなく成長投資も重要な条件として挙げられています。
この二つは密接に関係しています。
例えば新しい機械を導入すると、生産量を増やせるかもしれません。
DXによって事務作業を効率化すれば、少ない人数でより多くの仕事ができるようになります。
従業員一人当たりの生産性が上がれば、会社は賃金を引き上げる余力を持ちやすくなります。
つまり、
事業承継
成長投資
生産性向上
利益増加
賃上げ
という循環をつくることができます。
相続税や贈与税の免税を、この循環を生み出すきっかけにしようという考え方です。
具体的な賃上げ基準はこれから決まる
ここで注意したいのは、今回報じられている賃上げ要件の具体的な内容はまだ決まっていないことです。
経済産業省が2027年度税制改正要望に盛り込み、具体的な制度設計については年末にかけて政府・与党で調整する段階です。
したがって現時点では、
何%賃上げすればよいのか
給与総額を見るのか
一人当たり給与を見るのか
何年間継続するのか
賃上げできない年度があった場合にどうするのか
といった点は確定していません。
事業承継を予定している企業にとっては、今後公表される具体的な制度設計を確認することが重要です。
結論
事業承継税制の賃上げ要件とは、後継者の相続税や贈与税を大幅に軽減する代わりに、承継後の企業にも従業員への利益還元を求める考え方です。
従来の事業承継税制では、事業の継続や雇用の維持が重要な条件とされてきました。
今回検討されている新しい免税制度では、そこからさらに踏み込み、成長投資や賃上げに取り組む企業を重点的に支援する方向が示されています。
ただし、賃上げをどのように判定するのかは簡単ではありません。
給与総額、一人当たり給与、従業員数、継続期間など、さまざまな要素を考える必要があります。
厳しすぎれば制度を利用できる中小企業が減り、緩すぎれば税負担を免除する政策的な意味が薄れます。
今後の制度設計で注目すべきなのは、単に「賃上げを条件にするか」ではなく、「どのような賃上げなら相続税や贈与税を免税するのか」という具体的な線引きです。
参考
日本経済新聞 2026年8月23日 朝刊 相続・贈与税、賃上げで免除 中小、事業承継しやすく 経産省要望へ