米国の関税政策を巡る議論のなかで、しばしば指摘されるのがWTO(世界貿易機関)の紛争解決制度の機能不全です。
本来、WTOは加盟国間の貿易紛争を法的に処理する仕組みを備えています。
追加関税がルール違反かどうかを判断し、是正を求めるのがその役割です。
しかし現在、WTOの上級委員会は事実上停止状態にあります。
なぜ、国際貿易秩序の中核とされた制度が機能不全に陥ったのでしょうか。
本稿では、その構造的背景を整理します。
1.WTO紛争解決制度の仕組み
WTOの紛争解決制度は二審制です。
第一審にあたる「パネル」が事実関係と法解釈を審査します。
その判断に不服があれば、第二審にあたる「上級委員会」に上訴できます。
上級委員会の判断は最終的な法的拘束力を持ちます。
これにより、加盟国は一方的な報復ではなく、ルールに基づく解決を目指す仕組みが整えられてきました。
この制度は1995年のWTO発足以降、国際経済秩序の「司法機関」とも呼ばれてきました。
2.上級委員会の人事停止が決定打になった
機能不全の直接的な原因は、上級委員会の委員任命が停止されたことです。
上級委員会は7人の委員で構成されますが、任期満了に伴う後任任命に全加盟国の合意が必要です。
米国は2017年以降、後任任命に反対し続けました。
その結果、2019年末には定足数を下回り、上級委員会は事実上機能停止に陥りました。
パネル報告が出ても、当事国が上訴すれば審理が進まず、判断が確定しない「空上訴」の状態が生まれています。
3.米国が抱いた不満とは何か
米国が任命を拒否した背景には、いくつかの不満があります。
第一に、上級委員会が協定文を拡張解釈しているという批判です。
米国は、上級委員会が加盟国の合意を超えて「新しい義務」を作り出していると主張しました。
第二に、審理期間の長期化や手続きの透明性への不満です。
第三に、中国の国家資本主義的な経済モデルへの対応が不十分だという問題意識です。
米国は、WTOルールが中国の補助金政策や国有企業問題に十分対処できていないと考えてきました。
つまり、単なる手続き問題ではなく、「WTOは現実に適合していない」という構造的不満が背景にあります。
4.多国間主義と主権の緊張
WTO紛争解決制度は、加盟国の主権に一定の制約を課します。
国内法や政策が国際ルールに違反すれば是正を求められるからです。
しかし近年、各国で保護主義や経済安全保障重視の傾向が強まりました。
国内政治の圧力が強まるなかで、多国間ルールへの拘束を受け入れにくくなっています。
特に大国にとっては、自国法に基づく措置のほうが迅速かつ柔軟です。
その結果、「ルールによる統治」よりも「交渉力による解決」が優先される傾向が強まりました。
5.機能不全がもたらす影響
上級委員会が機能しない状況は、国際貿易秩序にいくつかの影響を及ぼしています。
第一に、ルール違反の最終判断が確定しないことによる法的不確実性の拡大です。
第二に、大国による一方的措置が増えやすくなることです。
第三に、地域協定や二国間交渉へのシフトです。
USMCAや日米合意のような枠組みが、WTOに代わる実務的な調整手段になりつつあります。
この流れは、多国間主義の相対的な後退を意味します。
結論
WTO紛争解決制度の機能不全は、単なる人事問題ではありません。
上級委員会の任命停止という制度的要因に加え、
- 協定解釈を巡る対立
- 中国経済モデルへの不満
- 主権と多国間統治の緊張
- 国内政治の保護主義化
といった複合的要因が重なっています。
今回の米国関税問題でも、WTOが迅速かつ確定的な判断を下せない構造が、各国の一方的措置を助長する側面があります。
国際貿易秩序は今、法的拘束力の強い多国間体制から、政治的交渉色の強い体制へと揺れ動いています。
企業にとっては、ルール違反か否かという形式論だけでなく、「ルールが実際に機能するかどうか」を見極める視点が重要になります。
参考
日本経済新聞
・止まらぬ「力の貿易支配」(2026年2月22日朝刊)
・EU、米関税の影響探る(2026年2月22日朝刊)
WTO
・Understanding the WTO: Settling Disputes
・WTO Dispute Settlement Body資料
