日本企業の雇用慣行において、退職一時金は長年にわたり重要な役割を果たしてきました。
しかし、王子ホールディングスが新卒社員を対象に退職一時金を廃止し、その原資を賃上げに振り向ける方針を示したことは、この仕組みの転換点を象徴する動きといえます。
本稿では、退職金制度の本質と、その見直しが意味する構造変化について整理します。
退職金の本質 ― 後払い賃金という仕組み
退職一時金は単なる福利厚生ではありません。
本質的には「後払い賃金」として設計されてきた制度です。
日本型雇用では、若年期の賃金を抑え、その分を退職時にまとめて支払うことで、企業と従業員の長期的な関係を維持してきました。
この仕組みには、主に以下の機能があります。
・長期勤続のインセンティブ
・人材の定着
・企業への忠誠心の維持
・解雇規制の代替的機能
つまり、退職金は単なる「老後資金」ではなく、雇用そのものを支える装置でした。
なぜ見直しが進むのか ― 人材市場の変化
今回の王子HDの決定の背景には、人材市場の構造変化があります。
特に重要なのは次の3点です。
1.中途採用の拡大
従来の制度は、新卒一括採用と終身雇用を前提としていました。
しかし中途採用が増えると、勤続年数に応じて支給額が増える退職金制度は整合性を失います。
中途入社者にとっては不利であり、採用競争上の障害となります。
2.若年層の価値観の変化
若年層は将来の退職金よりも、現在の可処分所得を重視する傾向があります。
背景には
・物価上昇
・将来不安
・転職の一般化
があります。
「後でもらえるお金」より「今使えるお金」が重視されるようになったことは、制度設計に大きな影響を与えています。
3.労働移動の一般化
転職が一般化すると、退職金は本来の機能を発揮しにくくなります。
勤続年数が短いまま離職すれば、退職金は十分に積み上がらないためです。
この結果、企業側も「後払い賃金」に依存する合理性が低下します。
制度転換の本質 ― 年功賃金から市場賃金へ
退職一時金の廃止は、単なる制度変更ではありません。
賃金体系そのものの転換を意味します。
従来は
・若年期:低賃金
・中高年期:高賃金+退職金
という年功型のカーブでした。
これに対し、今回の動きは
・若年期から賃金を引き上げる
・退職時の後払いを減らす
という「前払い型賃金」への転換です。
これは、企業内で完結する賃金体系から、労働市場と接続した賃金体系への移行ともいえます。
企業側のメリットとリスク
メリット
・採用競争力の向上
・人件費の透明化
・中途採用との整合性確保
リスク
・人材の定着力低下
・短期志向の強まり
・組織の一体感の低下
退職金が持っていた「長く働かせる装置」としての機能は弱まるため、別のマネジメント手法が必要になります。
個人側の影響 ― 自己責任化の進展
この変化は、個人にも大きな影響を与えます。
従来は企業が担っていた
・老後資金の形成
・長期的な所得保障
の役割が、個人に移転します。
その結果、以下の重要性が高まります。
・資産形成(NISA・iDeCoなど)
・キャリア設計
・転職市場での価値向上
つまり、「企業に依存した人生設計」から「自己責任型の人生設計」への移行です。
今後の方向性 ― ハイブリッド化する報酬制度
今後は、完全な廃止だけでなく、柔軟な制度が増えると考えられます。
例えば
・前払いと退職給付の選択制
・確定拠出年金(DC)の活用
・ポイント制退職金
などです。
これは、企業と従業員の関係が一様ではなくなったことを反映しています。
結論
退職一時金の廃止は、単なる制度変更ではありません。
それは、日本型雇用の根幹であった「後払い賃金モデル」の転換を意味します。
この変化は
・企業にとっては人材戦略の再構築
・個人にとっては資産形成とキャリアの自立
を求めるものです。
終身雇用を前提とした制度は、徐々に現実との乖離を深めています。
今後は、雇用・賃金・社会保障を一体として再設計することが重要になります。
参考
・日本経済新聞(2026年3月18日 朝刊)
王子HD、退職一時金廃止 賃上げ原資に
・日本経済新聞(2026年3月18日 朝刊)
王子HDの退職一時金廃止、「終身雇用前提」見直し
・厚生労働省 就労条件総合調査(2023年)
・中央労働委員会 退職金・年金及び定年制事情調査(令和5年)
・西成田豊 退職金の一四〇年

