遺言は家族を救うのか――二通の文書が問いかけた相続の現実

FP
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遺言は本来、家族間の紛争を防ぎ、円滑な相続を実現するための制度です。しかし、書き方や意図の伝え方を誤ると、かえって深刻な対立を生むことがあります。ある高齢の母親が残した二通の自筆文書をめぐる遺言有効確認訴訟は、その典型例といえるでしょう。

本稿では、この事案を手がかりに、複数遺言の法的整理と実務上の留意点を考察します。

事案の概要――優遇遺言と協議要請文書

亡くなった母親は、2015年に自筆証書遺言を作成していました。内容は、3人の子それぞれに一定額の保険金や預金を分配しつつ、長年同居し介護を担ってきた次女に対して実家不動産や投資信託などを相続させるというものでした。文面には、介護への感謝と将来生活への配慮が明確に記されていました。

ところが、亡くなる前年の2021年、母親は別の自筆文書を作成します。そこには「遺産及び今後の資産管理は実子3人のみで話しあってください」と記されていました。形式面では日付・署名・押印があり、自筆証書遺言の要件を満たしていました。

先の遺言では次女が厚遇され、後の文書では3人での協議を求める。両者は内容上、明らかに緊張関係にあります。このため、どちらが有効なのかが争われました。

民法の原則――後の遺言による撤回

民法は、遺言者がいつでも遺言を撤回できることを前提としています。そして、内容が抵触する複数の遺言が存在する場合には、後の遺言が前の遺言を撤回したものとみなされます。

もっとも重要なのは、「何が撤回されたのか」という解釈です。後の文書が具体的な財産処分を定めていない場合、それが前の遺言を包括的に撤回する趣旨なのか、それとも単なる希望や補足的意思表示にとどまるのかが問題となります。

本件では、後の文書に具体的な相続分の指定はありませんでした。「3人のみで話し合ってください」という一文のみです。この文言をもって、従前の遺言を全面的に撤回したといえるかが、最大の争点となりました。

裁判所の判断――撤回意思の明確性

第一審の東京地裁は、2015年の遺言が有効であると判断しました。判断のポイントは、後の文書に「撤回する」旨の明示がなかったことです。

裁判所は、2015年の遺言が具体的かつ詳細であるのに対し、2021年の文書はわずか一文である点を重視しました。もし本当に前の遺言を撤回する意思があれば、その旨を明確に記載するのが通常であると考えたのです。

さらに、次女の結婚によって直ちに介護への感謝や生活配慮の必要性が失われるわけではないとも指摘しました。結果として、後の文書は前の遺言と抵触する具体的処分を定めたものではなく、撤回の効力は生じないと判断されました。高裁もこれを支持し、次女の勝訴が確定しました。

背景事情――「のみ」という言葉の意味

本件では、次女の結婚相手への不信感が背景にあったとされています。「実子3人のみで」という表現には、配偶者を協議に関与させたくないという母親の意図がにじみます。

つまり、後の文書は財産配分を変更するためではなく、将来の紛争を防ぐための限定的なメッセージだった可能性があります。しかし、その曖昧さが、かえって紛争の火種となりました。

遺言者の「真意」は、文書の外にあります。しかし裁判所は、あくまで文書の文言と客観的事情から合理的に解釈するしかありません。真意がどれほど強くとも、明確に表現されなければ法的効果は限定されます。

実務上の教訓――複数遺言を残すリスク

この事案から得られる実務上の教訓は大きく三つあります。

第一に、遺言を変更する場合は、撤回の意思を明確に記載することです。「前の遺言をすべて撤回する」と明示すれば、解釈を巡る争いは大幅に減ります。

第二に、抽象的な希望やお願いを遺言書に書く場合、その法的性質を意識することです。付言事項として位置づけるのか、処分行為として定めるのかで意味は大きく異なります。

第三に、家族関係に変化があった場合は、専門家の関与のもとで内容を整理し直すことです。再婚、子の結婚、財産構成の変動などは、遺言見直しの契機となります。

自筆証書遺言は手軽ですが、その分、文言の曖昧さが訴訟につながる危険も抱えています。公正証書遺言や法務局保管制度の活用も含め、制度設計を検討すべき場面は少なくありません。

結論

遺言は、家族への最後のメッセージです。しかし、そのメッセージが不明確であれば、かえって家族を分断する結果を招きます。本件は、善意から書かれたであろう二通目の文書が、結果として長期の訴訟を生むことになった事例でした。

相続対策は財産配分だけでは完結しません。意思表示の明確性、家族関係の変化への対応、そして専門的助言の活用が不可欠です。遺言は「書けば安心」ではなく、「どう書くか」が問われているといえるでしょう。

参考

日本経済新聞 2026年2月22日朝刊「揺れた天秤」
家族を裂いた母の2通目 遺言有効確認訴訟(2026年2月22日付)

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