所得税には、複数の所得がある場合に利益と損失を相殺できる「損益通算」という仕組みがあります。
例えば、不動産所得が赤字で給与所得がある場合には、その赤字を給与所得と相殺して所得税の負担を軽減することができます。
しかし、すべての所得が自由に損益通算できるわけではありません。
所得税法では所得の種類ごとに通算の可否が定められており、通算できない所得も存在します。
実務でよく誤解されるのが、事業所得の損失と退職所得の関係です。
事業を営んでいる人が退職金を受け取る場合、事業の赤字を退職所得と相殺できるのではないかと考える人も少なくありません。
ここでは、事業所得の損失と退職所得の損益通算の関係について、税法の考え方を整理します。
所得税の仕組みと損益通算
所得税では、個人の所得を10種類に分類しています。
主なものとしては次のような所得があります。
・給与所得
・事業所得
・不動産所得
・譲渡所得
・退職所得
これらの所得は、すべて同じ扱いを受けるわけではありません。
課税方法や計算方法がそれぞれ異なり、損益通算の範囲も限定されています。
一般的に、損益通算が可能なのは次の所得です。
・事業所得
・不動産所得
・山林所得
・譲渡所得(一定のもの)
例えば、不動産所得が赤字の場合、その赤字を給与所得と相殺することが可能です。
しかし、すべての所得が対象になるわけではなく、退職所得は原則として損益通算の対象外とされています。
退職所得が特別扱いされる理由
退職所得は、他の所得とは大きく異なる扱いを受けています。
その理由は、退職所得が長年の勤務に対する報酬としての性格を持つからです。
退職金は、長年の勤務に対して一度に支払われる所得であり、通常の給与所得とは異なる特性があります。
そのため、税制上も特別な配慮がなされています。
具体的には、退職所得の計算では次のような優遇措置があります。
退職所得
=(退職金 − 退職所得控除)× 1/2
このように、
・退職所得控除という大きな控除がある
・さらに課税対象が2分の1になる
という非常に大きな税制優遇が設けられています。
こうした特別な扱いがあるため、退職所得は他の所得と損益通算することができない仕組みになっています。
相談事例の内容
相談事例では、次のような状況が想定されています。
事業所得 ▲900万円
退職所得 1,000万円
所得控除 200万円
この場合、一見すると
退職所得 1,000万円
−事業所得の損失 900万円
と相殺したくなるかもしれません。
しかし、税法上はこのような計算は認められていません。
なぜなら、退職所得は損益通算の対象外であるためです。
その結果、
・事業所得の損失は退職所得と通算できない
・退職所得は退職所得として単独で計算される
という扱いになります。
退職所得の分離課税という考え方
退職所得は、総合課税ではなく分離課税的な性格を持っています。
給与所得や事業所得などは総合課税として合算されますが、退職所得は独立した計算体系を持つ所得です。
このような構造になっているため、
・事業所得の損失
・不動産所得の損失
などを退職所得と通算することはできません。
退職所得は、あくまで退職所得の計算ルールの中で課税関係が完結する仕組みになっています。
住民税の扱い
この点は、住民税でも同様です。
退職所得は住民税においても
・退職所得控除
・分離課税
という仕組みで計算されます。
そのため、住民税においても
事業所得の損失
→退職所得と通算できない
という扱いになります。
所得税と住民税の両方において、退職所得は独立した所得として扱われるのです。
事業所得の損失はどうなるのか
では、事業所得の損失は完全に無駄になるのでしょうか。
必ずしもそうではありません。
青色申告の場合、事業所得の損失については
3年間の繰越控除
が認められています。
つまり、将来の事業所得や給与所得などと通算することが可能です。
ただし、この場合でも
・退職所得
・分離課税所得
などとは通算できない点には注意が必要です。
実務で注意すべきポイント
事業所得の損失と退職所得が同じ年に発生するケースは、決して珍しくありません。
例えば次のようなケースです。
・個人事業を営んでいる人が会社を退職する
・役員退職金を受け取る
・事業が赤字である
このような場合、
事業の赤字で退職所得を相殺できると誤解していると、税額の見込みが大きく変わる可能性があります。
退職所得は損益通算ができないという点を理解しておくことが重要です。
結論
所得税には損益通算という仕組みがありますが、すべての所得が対象になるわけではありません。
特に退職所得は
・退職所得控除
・2分の1課税
・分離課税的な構造
という特別な扱いを受けているため、事業所得の損失と損益通算することはできません。
事業所得と退職所得が同時に発生する場合には、税法上の扱いを正しく理解しておくことが重要です。
税務上の所得区分は、単なる分類ではなく、課税の仕組みそのものを左右する重要なルールと言えます。
参考
東京税理士会
東京税理士界 2026年3月1日号
会員相談室(中川祐一)
