2026年度税制改正では、企業の賃上げを後押ししてきた「賃上げ促進税制」が大きな転換期を迎えています。これまで制度の特徴だった教育訓練費に対する上乗せ措置が見直され、中小企業向け制度にも変化が生じています。
賃上げ税制は、単なる減税制度ではなく、日本の人手不足や物価上昇への対応、さらには企業の賃金政策そのものに影響を与える制度です。一方で、制度が複雑化していることや、大企業と中小企業で使い勝手が異なることも以前から指摘されてきました。
今回の改正は、単なる制度修正ではなく、「どのような賃上げを政策として支援するのか」という方向性の変化ともいえます。
賃上げ税制とは何か
賃上げ促進税制は、一定以上の賃上げを実施した企業に対し、法人税や所得税の税額控除を認める制度です。
もともとは、デフレ脱却や所得拡大を目的として導入されましたが、現在では以下のような政策目的が複合的に組み込まれています。
- 人手不足への対応
- 物価上昇への対応
- 従業員定着率の向上
- 人的資本投資の促進
- 持続的賃上げの実現
特に近年は「人的資本経営」が強調され、単なる給与増額ではなく、教育訓練投資を伴う賃上げが重視されてきました。
その象徴が「教育訓練費の上乗せ措置」でした。
教育訓練費上乗せ措置とは何だったのか
従来の賃上げ税制では、給与増加率の要件を満たした上で、教育訓練費を一定割合以上増加させると、税額控除率がさらに上乗せされる仕組みがありました。
つまり政策としては、
「単に給料を上げるだけではなく、人材育成も行う企業を優遇する」
という考え方です。
しかし実務では、次のような問題も指摘されていました。
- 教育訓練費の範囲判定が難しい
- 外部研修と内部研修の区別が複雑
- 証憑保存負担が大きい
- 中小企業では教育投資余力が乏しい
- 制度理解が難しく利用率が伸びにくい
特に中小企業では、教育訓練費を形式的に増やすことが目的化し、本来の人材育成戦略と乖離するケースもあったといわれています。
なぜ上乗せ措置は見直されたのか
今回の改正背景には、制度利用実態と政策効果への疑問があります。
そもそも賃上げ税制は、
「減税によって企業の賃上げ行動を誘導する」
という制度ですが、実際には次のような構造的問題があります。
大企業と中小企業で活用格差がある
大企業は利益余力が大きいため、税額控除の恩恵を受けやすい一方、中小企業は赤字企業も多く、そもそも税額控除を十分使えないケースがあります。
つまり、
「利益が出ている企業ほど恩恵を受けやすい」
という制度構造です。
人手不足による“やむを得ない賃上げ”が増えている
現在の賃上げは、政策誘導というよりも、人材確保のための防衛的賃上げという側面が強くなっています。
特に中小企業では、
- 採用難
- 離職防止
- 最低賃金上昇対応
への対応として、賃上げせざるを得ない状況があります。
そのため、
「税制優遇があるから賃上げする」
というより、
「賃上げしないと人が集まらない」
という構造へ変わっています。
中小企業への影響
今回の見直しは、中小企業にとっては一概にマイナスとも言い切れません。
むしろ、教育訓練費の形式的な増加要件がなくなることで、制度利用のハードルが下がる側面もあります。
特に実務上は、以下の点が重要になります。
制度判定の簡素化
教育訓練費の判定は実務負担が大きく、
- どこまで対象か
- 福利厚生との区別
- 外注費との区分
などで悩むケースが少なくありませんでした。
制度簡素化は、中小企業の税務負担軽減につながる可能性があります。
「賃上げそのもの」が中心へ
今後は、教育投資よりも、
- 実際に賃金が上がっているか
- 継続的な給与増加があるか
という点が重視される方向へ移行していく可能性があります。
つまり制度の軸足が、
「人的投資支援」
から
「実質賃金改善」
へ移りつつあるとも考えられます。
それでも残る制度上の課題
もっとも、賃上げ税制そのものには依然として課題があります。
赤字企業ほど恩恵を受けにくい
税額控除制度である以上、利益が出ていなければ効果が限定されます。
しかし、人手不足が最も深刻なのは、地方中小企業や労働集約型産業です。
つまり、
「本当に支援が必要な企業ほど恩恵を受けにくい」
という問題が残ります。
物価上昇に賃上げが追いつかない
名目賃金が上昇しても、物価上昇率を下回れば実質賃金は低下します。
そのため、
- 税制だけで賃上げを実現できるのか
- 生産性向上なしに持続可能なのか
という本質的課題があります。
制度が毎年変わる
賃上げ税制は近年改正頻度が高く、企業側では制度理解や実務対応が追いつきにくい状況があります。
特に中小企業では、
- 顧問税理士任せ
- 制度内容を十分把握できない
- 適用漏れ
も少なくありません。
今後の賃上げ政策はどう変わるのか
今後の政策は、単純な減税型支援から、より構造改革型へ移行する可能性があります。
例えば、
- DX投資支援
- 省人化投資
- AI活用支援
- リスキリング支援
- 地方人材定着策
などとの一体化です。
つまり、
「賃上げそのもの」
ではなく、
「賃上げ可能な企業体質への転換」
が政策の中心になる可能性があります。
これは今後の税制・補助金・社会保険政策とも密接に関係していくでしょう。
結論
教育訓練費の上乗せ措置見直しは、単なる制度縮小ではありません。
むしろ、
- 制度簡素化
- 実態重視
- 実質賃金重視
への転換ともいえます。
一方で、賃上げ税制だけで日本全体の賃金上昇を支えることには限界があります。
本質的には、
- 生産性向上
- 価格転嫁
- 労働市場改革
- 人材投資
- DX推進
といった経営構造改革と一体で考えなければ、持続的賃上げは難しい時代に入っています。
今後の賃上げ税制は、「減税制度」から「経営変革支援制度」へ性格を変えていく可能性があるのかもしれません。
参考
・月刊 所長のミカタ 2026年5月号「教育訓練費の上乗せ廃止 変化する賃上げ税制を活用」
・財務省「令和8年度税制改正大綱」
・経済産業省「賃上げ促進税制の概要」
・中小企業庁「中小企業の人手不足対応に関する資料」