近年、企業統治指針の改訂議論は「資本効率の向上」から一歩進み、「成長投資と株主還元をどう両立させるか」という段階に入っています。
ROEやPBRといった指標を軸に資本効率を高めてきた日本企業ですが、その一方で、設備投資や研究開発、人材投資が十分でないとの指摘も根強くあります。
本稿では、企業統治指針の改訂論点を整理しながら、今後求められる「成長志向型コーポレートガバナンス」の方向性について考察します。
資本効率重視の流れとその帰結
2015年に金融庁と東京証券取引所が策定したコーポレートガバナンス・コードは、日本企業の資本効率改善を大きく促しました。さらに2023年には東証が「資本コストや株価を意識した経営」を要請し、ROEやPBRを重視する経営姿勢が一層強まりました。
この結果、上場企業の利益水準は向上し、株価も上昇しました。しかし、同時に以下の課題も浮上しました。
- 自社株買いの増加
- 短期利益志向の強まり
- 成長投資の抑制
- 付加価値の海外流出
効率性を追求するあまり、投資を拡大するよりも、余剰資金を株主へ還元する選択が優位になる「縮小均衡」に陥る構造が生まれたのです。
「新しい資本主義」とガバナンス再設計
岸田政権下では「新しい資本主義」が掲げられ、四半期報告制度の見直しが実施されました。短期志向を是正する狙いがありましたが、自社株買い規制などは実現に至っていません。
高市政権においても、過度の株主還元の是正と成長投資の促進は政策課題として維持されています。政府答弁では、
- ROE指標の適切性の検証
- 成長投資の拡充
- ステークホルダーへの適切な資源配分
が明確に示されています。
現在、経済産業省では成長投資促進ガイダンスの策定が進められており、「成長志向型コーポレートガバナンス」への転換が制度面でも進行中です。
「率」から「額」への転換という視点
今後の改訂で重要になるのは、ROEのような「率」ではなく、「額」に着目する開示です。
率は分母を縮小することで改善できます。
しかし額の拡大は、実際に投資を行わなければ実現できません。
例えば以下のような開示が考えられます。
- 設備投資総額
- 研究開発投資額
- 人的投資額
- 既存事業メンテナンス投資と新規投資の内訳
これらを年次で予実管理し、経営者が説明責任を負う仕組みとすることで、投資拡大のインセンティブを制度的に組み込むことが可能になります。
「余裕」と「失敗」を許容する資金配分
効率性一辺倒の経営では、投資に「余裕」や「あそび」がなくなります。
しかし、イノベーションには失敗が不可避です。
短期的には、設備投資や研究開発における挑戦を許容するキャッシュアロケーションの設計が求められます。
中長期的には、その投資が付加価値創出にどう結びついたかを検証する開示制度が必要になります。
付加価値分配という新たな視点
ここで注目されるのが「付加価値分配計算書」という考え方です。
企業が生み出した付加価値を、
- 株主(配当・自社株買い)
- 従業員(賃金)
- 役員報酬
- 設備投資・研究開発投資
にどのように分配・再投資しているかを可視化するものです。
これは損益計算書の組み替えで作成可能であり、実際にアステナホールディングスが統合報告書で公表しています。
単に利益をいくら上げたかではなく、
「誰に、どのように、どれだけ分配し、どれだけ未来に投資したか」
を示す枠組みは、成熟経済下の企業評価指標として有効です。
SDGs後の時代とTISFDの動き
国連の持続可能な開発目標(SDGs)は2030年が目標年次です。
その後の議論では「サステナブル・ウェルビーイング」が重視される見通しです。
2024年には「不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース(TISFD)」が設立され、付加価値の分配や社会的影響の開示基準が検討されています。
日本は経済成熟化をいち早く経験した国です。
その経験を踏まえ、成長投資と分配のバランスを制度化するモデルを提示できる立場にあります。
結論:成長投資と株主還元は対立概念ではない
株主還元と成長投資は二項対立ではありません。
- 短期的な資本効率
- 中長期的な付加価値創出
- ステークホルダー間の適正分配
これらを同時に成立させる制度設計こそが、改訂企業統治指針の核心になります。
企業統治の議論は、もはや「株主か従業員か」という単純な構図ではありません。
「企業が生み出した付加価値を、どのように再投資し、どう分配するか」という設計思想の問題です。
成熟経済の日本においては、効率性だけでなく、持続性と分配の質を問うガバナンスへと進化できるかどうかが問われています。
参考
日本経済新聞「企業統治指針・改訂の論点(下) 成長投資と株主還元 両立を」(2026年2月20日朝刊)
