物価上昇や人手不足を背景に、パートや短時間労働の働き方が見直されています。そのなかで改めて注目されているのが「年収の壁」です。
特に社会保険の加入基準は、今後さらに拡大される方向にあります。従来の「106万円の壁」という理解だけでは、もはや実態を捉えきれません。現在の焦点は「週20時間」という勤務時間要件です。
本稿では、社会保険の壁の制度構造と今後の見通しを整理し、就業調整を前提としない働き方設計について考えます。
年収の壁は二つある ― 税と社会保険の違い
一般に「年収の壁」といわれるものは、大きく二つに分かれます。
- 税金の壁(所得税・住民税)
- 社会保険の壁(厚生年金・健康保険)
手取りへの影響が大きいのは社会保険の壁です。税の壁は段階的に負担が増える仕組みですが、社会保険は加入の有無で構造が変わります。
とくに配偶者が会社員で、扶養に入っている人は「第3号被保険者」として国民年金保険料を自ら負担せずに老齢基礎年金の受給権を得ています。しかし一定の基準を超えると、この仕組みから外れ、自身で厚生年金と健康保険に加入することになります。
106万円の壁から「週20時間」へ
社会保険の加入基準のうち、短時間労働者に関係する主な要件は次のとおりです。
- 従業員51人以上の企業(現在)
- 週20時間以上勤務
- 所定内賃金が一定水準以上
- 2カ月超の雇用見込み
いわゆる「106万円の壁」は、月収8万8千円相当から来ています。ただし、最低賃金の上昇を踏まえ、賃金要件は撤廃方向とされています。
今後は、事実上「週20時間以上働くかどうか」が最大の分岐点になります。時給が高くても19時間なら対象外、20時間なら加入対象。この構造が重要です。
さらに企業規模要件も段階的に引き下げられてきました。
- 2022年10月:101人以上へ拡大
- 2024年10月:51人以上へ拡大
- 2035年10月:全企業へ拡大予定
つまり将来的には、ほぼすべての企業で週20時間以上働けば厚生年金加入という制度設計になります。
負担増だけではない ― 加入メリットの再確認
社会保険加入は、目先の手取りを減らします。ここだけを見ると「損」に見えるかもしれません。
しかし制度は負担と給付が一体です。
厚生年金に加入すると、
- 老齢基礎年金に加えて老齢厚生年金が上乗せ
- 障害厚生年金の対象
- 遺族厚生年金の対象
健康保険に加入すると、
- 傷病手当金
- 出産手当金
などの保障が広がります。
短期的な手取り減と引き換えに、長期の年金水準と保障の厚みが増します。
制度設計の観点から見ると、「第3号のまま維持するか」「厚生年金に加入するか」は単純な損得ではなく、ライフプランの選択問題です。
就業調整という行動は合理的か
これまで多くの家庭で、壁を超えないように勤務時間を抑える「就業調整」が行われてきました。
しかし次の環境変化を踏まえる必要があります。
- 最低賃金の上昇
- 人手不足による賃金上昇圧力
- 企業規模要件の拡大
- 全企業適用への移行
制度は「加入を広げる方向」に動いています。壁を回避する戦略は、将来的に選択肢が狭まる可能性があります。
特に週20時間以上働ける環境があるなら、長期視点での保障拡充を前提に働き方を設計する方が整合的といえます。
制度は「中立」ではない
第3号被保険者制度は、専業主婦世帯を前提とした時代に整備されたものです。
現在は共働き世帯が主流となり、女性の就業率も上昇しています。制度は社会構造の変化に合わせて修正されつつあります。
年収の壁問題は、単なる家計テクニックの話ではありません。
- 年金財政の持続性
- 労働参加の促進
- 世帯単位から個人単位への移行
といった社会保障全体の設計思想と結びついています。
結論 ― 「壁」ではなく「設計」に発想を転換する
今後、社会保険の適用はさらに拡大します。週20時間という基準は、象徴的な分岐点です。
短期の手取り額だけで働き方を決める時代は終わりつつあります。
重要なのは、
- 将来年金額の試算
- 世帯全体のキャッシュフロー
- 就業継続可能性
- 保障の厚み
を踏まえた総合的な設計です。
「壁を避ける」から「制度を前提に設計する」へ。
年収の壁は、乗り越えるか避けるかではなく、どう活用するかを考える段階に入っています。
参考
日本経済新聞「<マネーの知識ここから>年収の壁(上)社会保険は週20時間以上に」2026年2月28日朝刊
厚生労働省 年金制度改正関連資料
日本年金機構 被用者保険適用拡大に関する資料

