日本では死亡数の増加が続いており、2040年には年間166万人を超えると推計されています。人生100年時代と言われる一方で、人生の最終局面をどのように迎え、どのように完結させるかという課題は、これまで以上に重みを増しています。
高齢期には、心身機能の低下に伴い、医療や介護、日常生活のさまざまな場面で他者の支えが必要になります。さらに、亡くなった後には火葬や納骨、相続手続きなど、本人では対応できない事務が連続的に発生します。これら一連のプロセスを、誰が、どのように担うのかという問題は、もはや一部の人だけのものではありません。
これまで終活は、相続対策やお墓の準備といった「個人の備え」として語られることが多くありました。しかし、個人や家族だけに任せる発想には限界が見え始めています。終活を社会全体で支える「インフラ」として捉え直す必要性が高まっているのです。
人生の最終局面に必要となる支え
人が生きて亡くなるまでの過程では、想像以上に多くの場面で他者の関与が必要となります。入院時の手続きや身元確認、介護サービスの利用調整、施設入所時の保証人、日常的な見守りや金銭管理など、その内容は多岐にわたります。
さらに、死亡後には火葬や埋葬、住居の整理、各種契約の解約、相続手続きといった事務が一気に発生します。これらは、本人がどれほど準備をしていても、最終的には第三者が動かなければ完結しません。
かつては、家族や親族、地域コミュニティが自然にこれらの役割を担ってきました。しかし、単身世帯の増加や親族関係の希薄化、地域とのつながりの低下により、その前提が崩れつつあります。その結果、「困ったときに頼れる人がいない」「亡くなった後の手続きをしてくれる人がいない」という状況に直面する人が増えています。
「身寄りの有無」ではなく「身寄り力」
こうした状況を考える上で重要なのが、「身寄り力」という視点です。身寄り力とは、戸籍上の家族の有無ではなく、実際に支援してくれる人や仕組みをどれだけ持っているかを総合的に捉える考え方です。
形式的に家族がいても、遠方に住んでいたり、関係が疎遠であったりすれば、実質的な支援は期待できません。一方で、血縁関係がなくても、信頼できる支援者やサービスとつながっていれば、人生の最終局面を比較的安定して迎えることも可能です。
重要なのは、「身寄りがあるか、ないか」という二分法ではありません。「いざというときに、誰が、どのように動いてくれるのか」が具体的に描けているかどうかが問われています。身寄り力の不足は、誰にでも起こり得るリスクなのです。
既存制度がカバーできない多数派
高齢者を支える制度としては、成年後見制度や生活保護制度、介護保険制度などがあります。しかし、これらは判断能力の低下や経済的困窮といった要件を前提としており、すべての人を対象としているわけではありません。
実際には、「お金はある」「判断能力もある」ものの、身寄り力が不足している人が数多く存在します。こうした人は、制度上は支援対象になりにくく、いわば制度の谷間に置かれています。推計では、高齢者の約7割がこの層に該当するとされています。
この空白を、現場の専門職や周囲の善意による無償労働で埋め続けることには限界があります。制度と現実のズレが拡大する中で、持続可能な仕組みとして再設計することが求められています。
終活を「インフラ」として捉えるということ
終活をインフラとして考えるとは、個人の努力や家族関係に依存するのではなく、誰もが一定水準の支援を受けられる仕組みを社会として整えることを意味します。
地域に根ざした見守りや日常支援に加え、金銭管理、医療・介護との連携、死亡後の事務までを含めた包括的な仕組みが必要です。また、本人が元気なうちに準備した内容が、いざというときに確実に実行されるためには、第三者による履行担保や監視の仕組みも欠かせません。
現在、こうした包括的な支援はまだ限定的で、地域差も大きいのが実情です。民間事業者、自治体、専門職がそれぞれの強みを持ち寄り、連携する形での終活インフラ整備が求められています。
結論
終活は、もはや個人や家族だけで完結できるテーマではありません。身寄り力の不足というリスクは、誰にでも起こり得るものであり、人生の最終局面を左右します。
だからこそ、終活を自己責任の問題として片付けるのではなく、社会全体で支えるインフラとして捉え直すことが必要です。次回は、こうした終活インフラを支える基盤として、「お金」と「契約」の問題を具体的に見ていきます。
参考
日本経済新聞
「終活インフラ」を整えよう(2025年12月30日 朝刊)
という事で、今回は以上とさせていただきます。
次回以降も、よろしくお願いします。

