物価が上昇すると、賃金も徐々に上昇していきます。名目賃金が上がれば生活は楽になるようにも見えますが、税制の仕組みによっては、実質的な税負担が増えてしまうことがあります。
この現象は「ブラケット・クリープ」と呼ばれます。日本ではあまり一般的な言葉ではありませんが、所得税制度を理解するうえでは重要な概念です。
令和8年度税制改正では、基礎控除などを物価上昇に応じて見直す制度が導入されました。その背景には、このブラケット・クリープの問題があります。
本稿では、ブラケット・クリープとは何か、なぜ起きるのか、そして日本の税制との関係について整理します。
ブラケット・クリープの仕組み
ブラケット・クリープとは、物価上昇に伴って名目所得が増えることで、納税者がより高い税率区分に移行し、税負担が実質的に増える現象を指します。
所得税は累進課税制度であり、所得が増えるほど税率が高くなる仕組みです。
例えば次のようなケースを考えてみます。
・物価が10%上昇
・賃金も10%上昇
この場合、実質的な所得水準は変わっていません。しかし税制が物価に連動していない場合、次のようなことが起こります。
・課税所得が増える
・より高い税率区分に入る
・結果として税負担が増える
つまり、実質所得が変わっていないにもかかわらず、税負担だけが増えることになります。
控除額が固定されている問題
ブラケット・クリープが生じるもう一つの理由は、控除額が固定されていることです。
所得税では、所得から一定の控除を差し引いて課税所得を計算します。代表的なものが次の控除です。
・基礎控除
・給与所得控除
・配偶者控除
・扶養控除
これらの控除額が長期間見直されない場合、物価上昇とともに控除の実質的価値は低下していきます。
例えば、基礎控除が48万円のまま据え置かれた場合、物価が上昇すればその48万円の価値は相対的に小さくなります。結果として課税対象となる所得が増えることになります。
この意味でも、ブラケット・クリープは税制の構造的な問題といえます。
海外では一般的な物価連動制度
ブラケット・クリープを防ぐため、多くの国では税制の物価連動制度が採用されています。
代表例が米国の所得税制度です。
米国では次の項目が毎年物価に応じて自動調整されます。
・税率区分
・標準控除
・各種控除額
これにより、物価上昇によって実質的な税負担が増えることを防いでいます。
この制度は1970年代の高インフレを背景として導入されました。インフレが続く状況では、税制の物価連動が不可欠と考えられるようになったためです。
日本ではなぜ導入されなかったのか
日本では、長い間このような物価連動制度は採用されてきませんでした。
その背景にはいくつかの要因があります。
第一に、日本は長期間にわたり低インフレまたはデフレの状況にありました。物価上昇が大きな政策課題ではなかったため、税制の自動調整制度の必要性が意識されにくかったと考えられます。
第二に、税制改正を毎年の政治判断に委ねるという制度慣行があります。税率や控除額は政策判断の重要な手段であり、自動調整制度を導入することには慎重な意見もありました。
こうした事情から、日本の税制は物価連動を前提としない仕組みのまま維持されてきました。
令和8年度税制改正との関係
令和8年度税制改正では、基礎控除や給与所得控除の最低保障額について、2年ごとに物価を基準として見直す制度が導入されることになりました。
これは、日本の税制において初めて本格的に物価連動の考え方を取り入れた制度といえます。
もっとも、この制度は所得税法の本則ではなく附則に盛り込まれています。したがって、厳密な自動調整制度ではなく、政府が定期的に見直すことを基本とする仕組みです。
それでも、日本の税制において物価と税制の関係を制度として明示した点は重要な変化といえるでしょう。
税制と物価の関係をどう考えるか
税制は、単に税収を確保する仕組みではなく、社会の経済環境を反映する制度でもあります。
物価が上昇する社会では、税制もそれに応じて調整されなければ、実質的な税負担が増加してしまいます。逆に、デフレや低インフレの時代には、こうした問題は表面化しにくくなります。
日本は長くデフレの時代を経験してきましたが、現在は物価上昇が続く新しい局面に入っています。その中で、税制と物価の関係をどう設計するかが重要な政策課題になりつつあります。
結論
ブラケット・クリープとは、物価上昇によって実質所得が変わらないにもかかわらず、税負担が増えてしまう現象です。
日本ではこれまで税制の物価連動制度がほとんど存在しませんでした。しかし、令和8年度税制改正では基礎控除などについて物価を基準とした見直し制度が導入されることになりました。
この制度は、日本の税制がインフレ時代に適応していくための第一歩と位置づけることができます。今後は、税率区分や他の控除制度を含め、税制と物価の関係についてさらに議論が進む可能性があります。
参考
税のしるべ 2026年3月9日
基礎控除等の物価上昇に応じた2年ごとの見直しは税制改正法案の附則
