「年収の壁」を生存権で語ることの限界 所得税と働き方をめぐる本質的な論点

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パートやアルバイトで働く人が「これ以上収入を増やすと損になる」と感じ、働く時間を抑えてしまう——いわゆる「年収の壁」の問題は、少子化対策・労働力不足・税制改革など幅広い政策領域と関わる課題です。近年の税制改正では、基礎控除や給与所得控除の見直しにより非課税枠が拡大した一方、政党間では「178万円案」など新たな上限の議論も盛り上がっています。

その背景には、最低賃金と基礎控除の関係を「生存権」と結びつける主張があります。しかし、年収の壁を「生存権」で語ろうとすると、議論が正確な課題設定から離れてしまう面があります。働き控えの原因が、果たして「最低限度の生活の保障」にあるのか、それとも制度上の損得にあるのかを丁寧に整理する必要があります。

本稿では、年収の壁をめぐる議論を素材にしながら、生存権との関連、税制のあり方、働き控えの実態、そして今後の改革方向について解説します。

1. 「178万円案」と生存権論の位置づけ

国民民主党が主張する「所得税非課税枠を178万円に引き上げる案」は、最低賃金の上昇率(1995年比1.73倍)を根拠にしています。最低賃金が生活を守る制度である以上、基礎控除も同等に引き上げるべきだという説明です。

確かに、生存権を支える制度として最低賃金と基礎控除には類似性があります。最低限度の生活を営むうえで必要な収入を確保し、それに課税して生活を圧迫しないようにするという趣旨は理解できます。

しかし、生存権論をそのまま働き控え問題に当てはめることには無理があります。最低賃金の議論は、「どの水準を社会として保障するか」という、生活の基礎を支える議論です。一方、年収の壁をめぐる問題は、働く側が制度上のメリット・デメリットを計算した行動であり、目的も状況も異なっています。

2. 働き控えの実態は「生存権」では説明できない

年収の壁のうち、よく取り上げられるのは「103万円」「130万円」「106万円」などのラインです。

特に働き控えが最も強く現れるのは、社会保険の加入が発生する「106万円の壁」です。こちらは保険料負担が一気に増えるため、直ちに手取りが減ることがあります。

一方、所得税の壁である「103万円」や「160万円」については、手取りが急減するわけではありません。「非課税」から「課税あり」に変わることで手取り増加が緩やかになるだけで、逆転現象(働くほど手取りが減る状況)は起きません。

つまり、所得税における年収の壁は「生存権レベルの問題」ではなく、「制度の有利・不利」によって生じる選択行動です。本来なら働く時間を増やしても生活が困窮するわけではない層の人々が、制度上の損得を理由に働き方を調整しているにすぎません。

3. 基礎控除ではなく「給与所得控除」で対応すべき理由

高市首相が国会で述べたとされるように、もし働き控え問題に対応するのであれば、すべての納税者に共通する基礎控除ではなく、給与所得者だけに適用される給与所得控除を調整すべきだという考え方があります。

理由は3つあります。

① 給与所得控除なら対象を中低所得層に絞れる
基礎控除を動かすと全納税者に影響するため、財源が大きく必要になります。一方、給与所得控除は給与所得者に限定されるため、財源規模を抑えながら必要な層に支援を集中できます。

② 働き控えが起きやすい層に直接アプローチできる
パートタイム就業が中心となる配偶者の課税水準を調整するには、給与所得控除の方が制度的に整合性があります。

③ 税収の減少幅が比較的小さい
25年度改正では、基礎控除10万円増で約5,450億円の減収に対し、給与所得控除の10万円増は約280億円にとどまります。これは政策コストの観点からも重要です。

4. ただし給与所得控除引き上げ案にも「逆転の罠」

給与所得控除を大きくすると、税負担を免れる層がさらに増え、働き方の合理性が歪む恐れがあります。たとえば、以下の問題が指摘できます。

  • 配偶者が扶養のまま働くほうが得になる状況が強まる
  • フルタイムよりパートタイムを選ぶ誘因が生まれる
  • 共働き世帯との負担が不公平になる

すでに2025年度の税制改正では、世帯主が高所得であっても、配偶者が160万円程度まで所得税負担ゼロ(配偶者特別控除満額+本人非課税)になる状況が生まれています。

ここからさらに壁を引き上げると、「働き控えの緩和」と同時に「負担の不公平」の拡大という副作用が大きくなります。

5. 本来は「被扶養配偶者」と「一般労働者」を分けて議論すべき

年収の壁の解決策を考えるうえで最も重要なのは、以下の2つの層を混同しないことです。

  • 生活保障の視点で支援を要する低所得労働者(生存権に近い議論)
  • 扶養範囲で働くことを選ぶ配偶者(制度上の得失による就業調整)

両者は状況も目的も異なり、必要な政策もまったく違います。

低所得層への支援イメージ
→ 給付付き税額控除(EITC型)、最低賃金、社会保障
扶養配偶者への対応
→ 配偶者控除・特別控除、社会保険制度の見直し、就業調整の抑制策

この2つを一括りにして議論すると、政策の焦点がブレてしまい、根本的な解決にはつながりません。


結論

年収の壁問題を「生存権」で語ろうとした瞬間、議論の焦点がずれてしまいます。最低限度の生活を支える制度と、働き控えを生む制度的な損得は、性質がまったく違うからです。

本来必要なのは、次の2点を切り分けた議論です。

  1. 生存権にかかわる生活保障の議論(最低賃金・基礎控除・給付付き税額控除)
  2. 制度の有利・不利による働き控えの議論(配偶者控除・社会保険の壁)

そして、働き控えの解消に取り組むのであれば、基礎控除の引き上げではなく、給与所得控除や配偶者制度の整理が現実的な選択肢になります。ただし、負担の公平性とのバランスには細心の注意が必要です。

今後は、被扶養配偶者と一般労働者を明確に分けたうえで、所得税、社会保険、給付付き税額控除の在り方を総合的に見直す議論が求められます。
働く人が「損得」で判断せざるを得ない制度から脱却し、安心して働ける仕組みをどうつくるか――これこそが、年収の壁議論の核心ではないでしょうか。


参考

・日本経済新聞「『年収の壁』、生存権で語る限界」2025年12月3日
・税制改正関連資料(財務省)
・最低賃金制度関連資料(厚生労働省)


という事で、今回は以上とさせていただきます。

次回以降も、よろしくお願いします。

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